カトリック北仙台教会

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カトリック北仙台教会の催し物や信徒の皆様へのお知らせです。

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2023年第31回「世界病者の日」教皇メッセージ

2023年2月11日


「この人を介抱してください」。
シノドスの精神にかなう、いやしの実践としてのあわれみの心

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 病は、人間である以上わたしたちの経験の一角を占めるものです。しかし、ケアやあわれみがなく、隔離され放置されたままであるならば、それは非人間的なものとなるでしょう。一緒に歩んでいれば、体調を崩したり、疲れや想定外のことで途中で動けなくなったりする人がいるのは当たり前のことです。そういうときにこそ、わたしたちは自分の歩みを確認できます。つまり、本当に一緒に歩んでいるのか、それとも同じ道にはいても、それぞれ、自己の利益を優先し、ほかの人には「自分でどうにか切り抜けて」もらって、わが道を行っていないかということです。ですから、シノドスの旅の真っ最中のこの第31回世界病者の日に、皆さんによく考えてみてほしいのは、まさに虚弱さや病を知ることで、近しさ、あわれみ、優しさという神の流儀をもってともに歩むことを学べるのだ、ということです。

 預言者エゼキエルの書において、啓示全体の頂点の一つである偉大なお告げの中で、主なる神はこう語っています。「わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神はいわれる。わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。……わたしは公平をもって彼らを養う」(34・15−16)。迷い、病、弱さの経験は、わたしたちの旅には付きものです。そうした経験によって、わたしたちは神の民から追い出されるのではなく、むしろ、主のいちばんの関心の的となるのです。主は御父であり、ご自分の子らが旅の途中で一人として失われることを望まないかたです。ですから、使い捨て文化に毒されることなく、真にともに歩む共同体となるには、その神から学ばなければなりません。

 回勅『兄弟の皆さん』は、ご存じのように、よいサマリア人のたとえ話を新たに読み直しています。わたしはこのたとえを、「閉ざされた世界の闇」から抜け出し、「開かれた世界を描き、生み出す」ための軸として、転換点として選びました(56参照)。実際、このイエスのたとえ話と、今日、友愛が否定されている多くの状況との間には、深いつながりがあります。なかでも、虐げられ身ぐるみはがされた人が道端に打ち捨てられている様子は、あまりに多くの兄弟姉妹が、もっとも助けを必要としているときに置かれる状態を表しています。いのちと、その尊厳に対する攻撃のうち、どれが自然な原因によるもので、どれが不正義や暴力によるものかが区別しにくくなっています。実際、著しい格差と少数者による利益独占は、すでに人間環境の隅々にまで影響を及ぼしており、どんな経験も「自然なこと」とはいえなくなっています。すべての苦しみは、一つの「文化」の中で、そこにあるさまざまな矛盾の中で生じているのです。

 ともかく、ここで重要なのは、孤独な、見捨てられている境遇を認識するということです。その残忍さは、他の不正義よりも先に克服しうるものです。たとえ話にあるように、その根絶に必要なのは、目を向ける一瞬、つまりあわれみという心の動きだからです。宗教者とされている通りすがりの二人は、負傷した人を見ても立ち止まりません。一方、三番目の人物であるサマリア人は、侮蔑される側の人なのに、あわれみに心動かされて、道端の見知らぬ人を介抱して、兄弟同然に接しました。そうすることでその人は、意図せずに変化をもたらし、世界をより友愛あるものにしたのです。

 兄弟姉妹の皆さん。わたしたちは、病気に完全に備えておくことなどできません。年を取ることすら、受け入れられない人も少なくありません。脆弱さを恐れ、市場原理の支配する文化によって脆弱さを否定させられます。弱みを見せるわけにはいきません。そのため不幸に襲われ痛めつけられると、わたしたちはただぼう然とするのです。そうなると、他者から見捨てられてしまったり、また、他者の負担にならないよう、自分のほうから離れなければならないと思い込んでしまったりします。こうして孤独が始まり、わたしたちは、天さえもが閉ざされたと思えるような不正義に対する苦しみに毒されてしまいます。確かに、他者との関係、自分自身との関係が壊れてしまうと、神との平和を保つことが難しくなります。だからこそ、病についても、教会全体が真の「野戦病院」となるために、よいサマリア人の福音的模範に照らして自らの歩みを判断していくことが非常に重要なのです。わたしたちが今まさに経験している歴史的状況において、教会の使命は、まさしく、ケアの実践に表れます。わたしたちは皆、もろくて弱い存在です。立ち止まり、近づき、介抱し、起き上がらせる力のある、あわれみの心で注意を向けてもらうことを、皆が必要としています。ですから病者の置かれている状況は、無関心を打ち破る呼びかけであり、姉妹や兄弟などいないかのように突っ走る人々に、ペースを落とすよう訴えるのです。

 世界病者の日は、実際、祈りや、患者への寄り添いを呼びかけているだけではありません。併せて、神の民と、医療機関と、市民社会の、ともに歩むための新しい道についての意識向上も目的としています。冒頭に引用したエゼキエルの預言は、経済的、文化的、政治的支配者層が優先するものへの、実に辛辣な裁きも含んでいます。「お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物をほふるが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した」(34・3−4)。神のことばは、つねに照らしとなり、時宜にかなうものです。非難だけでなく、提案においてもそうです。事実、よいサマリア人のたとえ話の結末は、顔を寄せた出会いから始まる友愛の実践が、どのようにすれば機能的なケアに拡大できるかを示唆しています。宿屋、宿屋の主人、お金、状況を知らせ合う約束(ルカ10・34-35参照)――、このすべてが、司祭の奉仕職や、医療従事者やソーシャルワーカーの働き、家族やボランティアの献身を思い起こさせます。こうした人々のおかげで、毎日、世界各地で、善が悪に立ち向かえるのです。

 パンデミックの数年に、わたしたちの間で、医療やその研究のために日夜働いている人々への感謝の思いが強まりました。ですが、これほどの大規模な集団的悲劇から抜け出すには、英雄たちをたたえるだけでは不十分です。新型コロナウィルス感染症(COVID-19)は、専門技術と連携が生み出すその優れたネットワークを厳しい試練にさらし、既存の福祉制度の構造的な限界を明らかにしました。ですからその感謝の気持ちを、各国での保健政策と資源の積極的な追求につなげ、すべての人が医療を受け、健康を求める基本的権利が保障されるようにしていかなければなりません。

 「この人を介抱してください」(ルカ10・35)――、これは、サマリア人から宿屋の主人への依頼のことばです。イエスはこれを、わたしたち一人ひとりにも繰り返し語り、最後には「行って、あなたたちも同じようにしなさい」と勧めておられます。『兄弟の皆さん』で強調したように、「このたとえ話は、……益が共有されるよう、他者の弱さを自らのものとし、排除する社会を作らず、かえって隣人となって倒れた人を起き上がらせて社会に復帰させる人々から成る共同体を再構築できるイニシアティブを示しています」(67)。まさしく、「わたしたちは愛においてのみたどり着くことのできる充満のために造られた、ということです。他の痛みに無関心で生きるという選択はありえません」(68)。

 2023年2月11日には、現代世界のただ中で教会に託された、預言であり、教えであるルルドの聖所に目を向けましょう。働ける人だけに価値があるのではなく、生産性のある人だけが大切なのでもありません。病者は神の民の中心であり、神の民は、人類の預言である彼らとともに前進するのです。一人ひとりに尊い価値があり、だれも切り捨ててはならないという預言です。

 病者のいやし手、マリアの執り成しに、皆さん一人ひとりをゆだねます。病者の皆さん、病気の家族を世話する皆さん、仕事で、研究で、ボランティア活動で彼らを世話する皆さん、そして個人の、教会の、市民社会の友愛のきずなを築くために尽力する皆さん。すべての皆さんに、愛を込めて使徒的祝福を送ります。

ローマ、
サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂にて
2023年1月10日
フランシスコ

2023年キリスト教一致祈祷週間(1月18日~25日)

2023年1月18日

「善を行い、正義を追い求めなさい」(イザヤ1・17 参照)

2023年のキリスト教一致祈祷週間は、2023年1月18日(水)~25日(水)、全世界で行われます。今回のテーマは、「善を行い、正義を追い求めなさい」(イザヤ1・17 参照)です。

 毎年、キリスト教一致祈祷週間で使われる資料は、世界教会協議会(WCC)と教皇庁キリスト教一致推進省の共同事業として、各国から選ばれたキリスト教諸教会が協力して作成しています。
 2023年のキリスト教一致祈祷週間のテーマは、ミネソタ教会協議会が招集した米国のキリスト者グループによって選ばれ、資料が準備されました。このグループは、2020年12月に最初のオンライン会合を持ち、その後も検討を重ねてきました。2021 年9月19 日から23 日の間、キリスト教一致祈祷週間の資料をまとめる国際グループが、スイスのシャトー・ドゥ・ボッセーでミネソタ教会協議会の代表者と会合をもち、最終的な資料の準備を進めてきました。
 ミネソタ州は、長年にわたって全米における最悪の人種間格差を抱えてきましたが、ミネソタ教会協議会はこの歴史的な人種差別の問題に熱心に取り組み、最近では、ミネソタは人種差別撤廃の発信地となっています。キリスト教一致のための祈りは、ミネソタでの取り組みに見られるように、神の似姿としての尊厳をもって創造された人間であるわたしたちの間を隔てるものと格闘する中で行われるとき、さらに重要な意味をもつのです。

 日本でも、世界に広がる教会と心を合わせてキリスト者の一致を祈るため、カトリック中央協議会と日本キリスト教協議会が共同で翻訳した資料を小冊子『キリスト教一致祈祷週間』として発行し、ポスターとともにご案内しています。小冊子には以下の内容が盛り込まれています。

・その年のテーマの解説
・エキュメニカル礼拝式文
・八日間の聖書の黙想と祈り
・作成担当国のエキュメニズムの現状

 この小冊子は、キリスト教一致祈祷週間の期間だけでなく、一致を求める個人の祈りや共同の祈りのために年間を通して用いることができるよう配慮されています。

https://www.cbcj.catholic.jp/2022/11/22/25911/

第56回「世界平和の日」教皇メッセージ

2023年1月1日

第56回「世界平和の日」教皇メッセージ(2023年1月1日)

「だれも一人で救われることはない。
COVID-19からの再起をもって、皆で平和への道を歩む」

「兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです」(一テサロニケ5・1−2)。

1.このことばで使徒パウロは、テサロニケの共同体に、主の再臨を待つ間も、心と足を固く大地に着けて踏ん張り続け、歴史の現実と激動をよく見るようでありなさいと呼びかけました。ですからわたしたちには、この世界があまりに悲劇ばかりに見え、不正義と苦悩の暗く険しいトンネルに押し込まれていると感じたとしても、神を信頼し、希望に心を開いておくよう求められています。神は今ここにおられるかたとなり、優しさをもってわたしたちとともに歩んでおられ、疲弊するわたしたちを支え、何よりも、わたしたちの道を導いてくださっているのです。この思いをもって聖パウロは、眠らず目を覚ましていなさい、善、正義、真理を求め続けなさいと共同体を諭します。「ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう」(5・6)。眠らず目を覚ましていなさい、恐怖に、苦痛に、諦めに、身をすくめていてはなりません、飽きてはなりません、くじけてはなりません。そうではなく、もっとも闇の深まった時間に、夜明けの最初の光をとらえる歩哨のようでありなさいとの呼びかけです。

2.新型コロナウィルス感染症(COVID-19)は、突如わたしたちを闇へと突き落とし、日常の生活を揺るがし、やろうとしていたことや習慣を狂わせ、特権を手にする社会の表面上の平穏さえ乱し、混乱と苦しみを生み出し、多くの兄弟姉妹を死に至らしめました。
 唐突に課題が渦巻く中へ、そして十分な科学的知見すらない状況下に投げ込まれ、医療介護業界の従事者は、膨大な数の人の苦痛の対処と治療のために動員されました。同様に行政当局も、緊急事態の制度や運用面で思い切った措置を取らなければなりませんでした。
 COVID-19が、身体の症状に加えて引き起こしたのは、なお長期的余波を残す漠然とした不安感です。それは、長期間に及ぶ隔たりとさまざまな制約で悪化し、無視できないほどの影響を与え、多くの人や家庭の心を覆っています。
 さらにパンデミックは、社会構造や経済構造の弱い部分に打撃を与え、矛盾や不平等を露呈させたことも忘れてはなりません。多くの人の雇用の安定を脅かし、社会の中での孤立をいっそう広げることになりました。とりわけ、いちばんの弱者や困窮者において、それは顕著でした。たとえば、世界の多くの地域の、何百万人ものインフォーマル経済の労働者(訳注:国や自治体の法的枠組みの外で営まれている、生産や商売等の経済活動の従事者。とくに途上国に顕著。世界の就業者の6割、20億人以上が該当。ほとんどが社会保障制度の枠外に置かれている)のことを考えてみてください。外出禁止の間、職を失い、何の支援も受けられずにいました。
 こうした敗北感や悲嘆が生じる状況では、個人も社会も、そうそう前には進めません。そうした状況は、平和に尽力する取り組みを挫き、社会の分断、いら立ち、あらゆるたぐいの暴力を引き起こすからです。その意味で今回のパンデミックは、世界の比較的平和な地域をも揺さぶり、数え切れないほどの不備を露出させたように思われます。

3.3年経ってようやく、個人としても共同体としても、振り返り、学び、成長し、変わっていくための、時間が取れるようになりました。「主の日」に備える日常が戻ってきました。これまで何度も申し上げたことですが、危機を経ても同じということはありえません。よくなっているか、悪くなっているか、いずれかです。今日、それぞれでよく考えてみてください。今回のパンデミックから、一体何を学んだでしょうか。古い習慣の鎖を断ち切り、よりふさわしく心を整え、新しいことに挑むために、どんな新たな道を歩むべきでしょうか。前に進み、世界をよりよい場所にするために、どのようないのちのしるしと希望のしるしをつかんでいるでしょうか。
 脆弱さが人間の現実と一人ひとりの存在の特徴であることを実感した後に、間違いなくいえることがあります。それは、COVID-19の遺産として残された最大の教訓は、わたしたちは皆互いを必要としているという気づきであり、とてももろいものであるとはいえ、わたしたちの最大の宝は、等しく神の子どもであることに基づく人類の兄弟愛だという気づき、そして、だれも一人で救われることはないという気づきです。ですから、人類のこの兄弟愛の道をたどるという普遍的価値観をともに求め、促進することを急がねばなりません。進歩、テクノロジー、グローバル化の効果、これらに寄せる信頼は過剰であったばかりか、個人主義と偶像崇拝への酩酊を引き起こし、正義、協調、平和という望ましい保証を危うくしていることも学びました。この目まぐるしい世界では、格差、不正義、貧困、排斥といった拡大してきた問題が、不安や対立をしばしばあおり、暴力や戦争までも引き起こしているのです。
 パンデミックによってこれらすべてが明るみに出た一方で、好ましいものも目にすることができました。それは、謙虚さを好ましく取り戻したことであり、ある種の消費主義的な欲求を切り捨てられたことであり、他者の苦しみと窮乏に心を開くべく、利己心を克服するよう促す連帯感を新たにしたことであり、そしてまた、皆がこの緊急事態の悲劇をよりよく乗り越えられるようにとの、多くの人による、場合によって本当に英雄的な、惜しみない献身による取り組みです。
 この経験から、「ともに」ということばをあらためて中心に据えるよう、すべての人、民族、国家に訴える強い意識が芽生えました。平和を築き、正義を守り、悲痛な出来事を乗り越えるには、まさしく、ともにあること、兄弟愛と連帯のあること、それが必要なのです。事実、パンデミックに最大の効果を発揮した対応は、難局に対処するために、社会集団、公的機関と企業、国際機関が、個々の利害を脇に置いて、一致団結したことでした。兄弟的で私欲のない愛から生まれる平和だけが、個人の、社会の、世界の危機を克服できるのです。

4.COVID-19のパンデミックの嵐のピークは過ぎたという希望的観測を抱き始めた矢先、次なる恐ろしい大惨事が人類に大きな衝撃をもたらしました。新たな惨劇の始まりを見せつけられたのです。また別の戦争、――COVID-19に重なる面はあるものの、しかしながら、明らかに人間の罪である決断の積み重ねで引き起こされた戦いです。ウクライナでの戦争は、罪なきいのちを奪い、直接の被害者ばかりか、広く無差別に世界中で恐怖を増幅させています。何万キロも離れていても、小麦不足や燃料費高騰の例のように、その余波に苦しめられているのです。
 これは、わたしたちがコロナ後に希望し期待した世界とはまったく違います。事実この戦争は、世界各地でのあらゆる紛争同様、直接の当事者だけでなく、人類全体の敗北を意味しています。COVID-19のワクチンは開発されましたが、戦争終結のための有効な解決策はまだ見つかっていません。確かに、戦争のウイルスは、生体を冒すウイルスよりも克服が困難です。それは戦争が、人間の外から来るのではなく、罪によって腐敗した、人間の心の中から生じるものだからです(マルコ7・17-23参照)。

5.ではわたしたちに、何が求められているのでしょうか。まずは、あの非常事態の経験によって回心すること、つまり歴史の中で今こそ、わたしたちがこれまで用いて来た世界や現実の解釈基準を、神に変えていただくのです。わたしたちはもはや、個人や国家の利益になるものを守ることだけを考えていてはだめなのです。利益を守ることを、共通善に照らし、共同体意識をもって、言い換えれば普遍的兄弟愛に開かれた「わたしたち」として、考えていかなければならないのです。わが身の保護だけを求めていてはだめなのです。今こそが、わたしたち全員で、この社会と地球の治癒に取り組む時であり、より公正で平和な世界、真に共通する善の追求に真剣に取り組む世界に向け、基盤を築く時なのです。
 そのためには、またコロナ禍後のよりよい生のためには、基本的な事実を無視できません。すなわち、わたしたちがその渦中にいる道徳的、社会的、政治的、経済的危機は、すべて相互に関連しているということ、また独立した問題ととらえられていることがらも、実際はそれぞれ別の問題の原因や結果であるということです。ですからわたしたちは、責任と思いやりをもって、わたしたちの世界の課題に立ち向かうよう求められているのです。わたしたちがなすべきことは、すべての人への公的医療保障制度に再度取り組むこと、犠牲者と貧困を生み続ける紛争と戦争に終止符を打つための平和行動に着手すること、共通の家を一致団結してケアし、気候変動に取り組むための明確で効果的な対策を実行すること、格差というウイルスと戦い、すべての人に食糧とディーセントワーク(人間の尊厳にかなう職)を確保し、最低賃金さえ得られず困窮にあえぐ人たちを支援することです。飢餓に苦しむ民がいることはスキャンダルであり、わたしたちを傷つけるものです。とくに移住者や、社会から排除されて暮らす人に対し、適切な政策をもって、受容と共生を推し進めていかなければなりません。こうした状況にあっては、神の無限のいつくしみの愛に触れて生まれる、利他的希望をもって身を尽くすことで初めて、わたしたちは新しい世界を築き、愛と正義と平和のみ国である、神の国の建設に寄与できるのです。
 こうした反省を皆さんと分かち合いながら、歴史を教訓にして、ともに新しい年を歩んでいきたいと思います。国家元首および政府の長、国際機関の代表者、ならびに諸宗教指導者の皆さんに、新年の祝辞を申し上げます。善意あるすべての人が、その手で日々平和をこしらえる職人となって、よい一年となりますように。イエスの母、平和の元后、無原罪の聖マリアが、わたしたちのために、そして全世界のために執り成してくださいますように。

バチカンにて
2022年12月8日
フランシスコ

名誉教皇ベネディクト十六世の逝去

2022年12月31日

名誉教皇ベネディクト十六世は、現地時間12月31日9時34分(日本時間12月31日17時34分)、ローマにおいて95年にわたる人生の旅路を終え、御父のもとに旅立たれました。永遠の安息をお祈り申しあげます。

https://www.cbcj.catholic.jp/2022/12/31/26205/

2022-23年第37回「世界青年の日」教皇メッセージ

2022年11月20日

「マリアは出掛けて、急いで……行った」(ルカ1・39)

 親愛なる若者の皆さん

 ワールドユースデー(WYD)パナマ大会のテーマは、「わたしは主のはしためです。おことばどおり、この身になりますように」(ルカ1・38)でした。この大会を終え、わたしたちは新たな目的地である2023年リスボン大会への道を歩み始めており、神からの緊急の呼びかけを心に響かせているところです――起き上がれ。2020年は、「若者よ、あなたにいう。起きなさい」(ルカ7・14)というイエスのことばを味わいました。昨年は、復活した主から次のようにことばをかけられた使徒パウロの姿を手掛かりとしました。「起き上がれ。わたしはあなたを、あなたが見てきたことの証人にする」(使徒言行録26・16参照)。リスボンにたどり着くまでの最後の段階に寄り添ってくださるのは、お告げを受けた直後に、いとこのエリサベトのもとへと「出掛けて[訳注:「出掛ける」と訳されているのは、他で「起き上がる」と訳されているものと同じ語]、急いで……行き」(ルカ1・39)助けようとしたナザレのおとめです。この三つのテーマに共通する動詞は「起き上がる」です。このことばには「再び起きる」、「いのちがよみがえる」という意味もあることは、覚えておいてほしいと思います。

 パンデミックによって受けた傷に苦しめられていた人類が、戦争の悲劇によってずたずたにされる、そのあまりにつらいこの時に、マリアはすべての人のために、とりわけあなたがた、マリアと同じく若い皆さんのために、近しさと出会いの道を再び開いてくださいます。わたしは、来年8月にリスボンで多くのかたが経験することが、若者の皆さんにとって、そして皆さんとともに、全人類にとって新たな出発点となるよう希望し、またそうなることを固く信じています。

マリアは出掛けて

 お告げを受けた後ですから、マリアは新たな事態による心配事や不安の中、自分のことで頭がいっぱいになっていてもおかしくありません。ところがそうではなく、マリアは神を信頼しきっておられます。さらには、エリサベトのことを案じています。マリアは起き上がり[出掛けて]、活力と動きとがある、陽の光のもとへと飛び出していきました。衝撃的な天使のお告げは、彼女の人生の計画に「地震」をもたらしましたが、この少女は立ち尽くしはしません。その胎にイエスが、復活の力であるかたがおられるからです。マリアはすでに、ほふられた小羊でありながら永遠に生きておられるかたを宿しておられるのです。彼女が起き上がって動き出せたのは、神の計画こそが、自分の人生の最高の青写真だという確信があったからです。マリアは神の神殿となり、旅する教会の姿、出向いて仕える教会、よい知らせを伝える教会の象徴となっています。

 人生において、復活したキリストの現存を体験すること、「生きておられる」このかたと出会うことは、最高の霊的喜びであり、だれにも「抑える」ことのできない光の大爆発です。これによってわたしたちは、直ちに突き動かされ、この知らせを他の人々に伝えるよう、この出会いの喜びをあかしするよう駆り立てられるのです。復活後の日々で最初の弟子たちをせきたてたものは、まさしくこの出会いです。「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」(マタイ28・8)。

 復活の物語には、「目覚める」と「起き上がる」という二つの動詞が頻出します。この二つのことばで主はわたしたちに、光の中に出て行きなさい、自分の閉じた扉のすべての敷居をまたいで出て行くよう主に導いていただきなさい、そう促しておられます。「それは、教会にとって深い意味をもった姿です。わたしたちもまた、主の弟子として、またキリスト者の共同体として、復活のダイナミズムに加われるよう、そして主が示そうとしておられる道に導いていただけるよう、急いで身を起こす[出掛ける]ことが求められています」(「聖ペトロ聖パウロ使徒の祭日のミサ説教(2022年6月29日)」。

 主の母は、活動する若者の模範であって、鏡の前で自分ばかり見て動かずにいる人や、ネットに「がんじがらめになっている人たち」とは違います。マリアは完全に外を向いています。このかたは自分の外に出ていき、偉大な相手であるかた、神のもとへ、また他の人々、兄弟姉妹のもとへ、とりわけ、いとこエリサベトのように、とても困っている人のもとへ向かう、つねに脱出状態のパスカ(過越/復活)の女性なのです。

急いで……行った

 ミラノの聖アンブロジオは『ルカ福音書註解』の中で、マリアが急いで山里に向かった理由について次のように書いています。「希望で胸躍り、奥からわき出る喜びで、奉仕に献身したいと熱望したからです。今や、神に満たされたマリアがはやる思いで向かう場所は、高いところ[訳注:エリサベトのもとに行くには山を越えなければならない]のほかにあったでしょうか。聖霊の恵みは、悠長にはさせません」。マリアが急ぐのは、奉仕に、喜びを告げることに、聖霊の恵みに即こたえることに、急いでいるからです。

 マリアは、年老いたいとこの困り事にこたえようとしています。尻込みしたり、無関心でいたりはしませんでした。自分のことよりも他者のことを思っていました。だから彼女の人生には、躍動感と熱意が生まれるのです。皆さん一人ひとりが考えてみてください。身の周りでだれかの困り事に気づいたとき、自分はそれにどうこたえるのか。すぐさま、かかわらないことの言い訳を考えるのか、それとも関心をもって自分自身を用立てるのか。もちろん、世界中の問題をすべて解決できるわけはありません。それでも、身近な人の困り事から、自分の住んでいる地域の問題から、始めることはできるはずです。かつてマザー・テレサは、「あなたのしていることは、大海の一滴にすぎない」といわれたことがあります。彼女はそれに、「でもわたしがしなければ、海は一滴分、減ってしまいますから」と答えました。

 具体的で緊急のニーズがあれば、すぐに行動しなければなりません。世界には、心配して世話をしてくれる人が来てくれるのを待つ人が大勢います。どれほどの高齢者が、病者が、収監者が、難民が、自分と同じく心を痛めるわたしたちのまなざしを、わたしたちの訪問を、無関心の壁を乗り越えてくれる兄弟を、姉妹を、必要としていることでしょう。

 どのような「緊急性」が、愛する若者の皆さんを動かすのでしょうか。じっとしていられないほどに、皆さんを動かそうとするものは何でしょうか。パンデミック、戦争、強制移住、貧困、暴力、気候変動といった現実に苦しむ多くの人には、問いが生まれます。どうしてわたしにこんなことが起こるのか。なぜわたしなのか。なぜ今なのか。まさにそこに、わたしたちの存在の中心的な問いがあるのです――「わたしはだれのためにあるのか」(使徒的勧告『キリストは生きている』286参照)。

 ナザレの少女が急いだことは、主から受け取った途方もない贈り物を分かち合わずにはいられない人、経験した深い恵みがあふれ出てしまう人のそれと同じです。自分のことよりも他者の困り事を優先できる人の機敏さです。マリアは、他人からの注目や承認を求めて時間を無駄にする――SNSの「いいね」に取りつかれるとそうなります――のではなく、出会い、分かち合い、愛と奉仕から生まれる、本物のつながりを求めて行動する若者の模範となる人物です。

 お告げを受けて以降、いとこを訪ねて初めて出掛けて行ったときから、マリアは、時と空間を超えて、思いやりあるご自分の助けを必要とする子らのもとへ向かうことをやめません。わたしたちの旅路は、そこに神が住まわれておられるならば、わたしたちをまっすぐ、兄弟姉妹一人ひとりの心へと導く道となります。イエスの母であり、わたしたちの母であるマリアの「訪れ」を受けた人々のあかしは、どれほど多いことでしょう。マリアは、何世紀もの間、地上のあちらこちらで、出現や特別な恵みをもって、ご自分の民のもとをどれほど訪れてきたことでしょう。実際、このかたが訪れていない場所は、この地上にどこにもありません。神の母は人々の間を歩んでおられ、愛に満ちた優しさから心動かされ、苦悩や人生の浮き沈みをその身に引き受けておられます。ですからマリアにささげられた聖地、教会、礼拝堂がある場所には、その子らが大勢集まるのです。マリアにささげる民間信心業はたくさんあります。巡礼地、祝祭日、嘆願の祈り、家々を巡回するマリア像、そのほかにも多数ありますが、これらは、相互に訪ね合う仲の、主の母とその民との血の通った関係の具体例です。

「よい」急ぎはつねに、わたしたちを高みへと、他者のもとへとせきたてるもの

 よい急ぎは、必ずわたしたちを、高みへと、他者のもとへと駆り立てます。その逆の、悪い急ぎというものもあります。たとえば、懸命さや真剣さがなく、かかわっていることに本気で取り組むことなく、表面的にやり過ごすようになる、何でも軽く捉えてしまう性急さです。少しも真剣に考えず、心もそっちのけで、生活し、学び、働き、人と交際しているときのせわしなさです。人間関係の中でそうなることもあります。家庭でいえば、相手の話にろくに耳を傾けず、一緒に過ごすことのない関係、また交友関係でいえば、友だちには楽しませてもらい、自分の欲求を満たしてくれるよう期待する一方、友が窮地に陥り、自分を必要としていると分かればすぐに避けて、別の人のもとに去っていくような関係であればそうなります。さらに恋人どうしの情熱的な関係でも、互いを深く知り、理解するための忍耐力のある人は少ないのです。そうした態度を、学校や職場、それ以外の日常生活でも取ってしまうことがあります。いずれにしても、そうした性急さをもって生きているうちは、実を結ぶことは難しいでしょう。不毛なままとなるおそれがあります。箴言にあるとおりです。「勤勉な人はよく計画して利益を得、あわてて事を行う者――悪い『急ぎ』――は欠損をまねく」(21・5)。

 マリアがやっとのことでザカリアとエリサベトの家にたどり着くと、すばらしい出会いがあります。エリサベトは、老齢の彼女に子を授けてくださった神の、奇跡のわざをその身に味わっていたのです。エリサベトは、まず自分の話をしたくなるのが当然のはずなのに、自分のことには夢中にならずに、駆け寄って若いいとことその胎に宿った子を歓迎したのです。マリアのあいさつを聞いた途端、エリサベトは聖霊に満たされます。こうした、不意に聖霊に満たされる感じは、わたしたちが心から人をもてなすとき、つまり、自分ではなく客人をいちばんに考えるときにもたらされます。これは、ザアカイの物語にも見られます。ルカ福音書19章5−6節では次のように語られています。「イエスはその場所(ザアカイのいるところ)に来ると、上を見上げていわれた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい』。ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた」。

 わたしたちの多くは、思いも寄らないときに、イエスが会いに来てくださるという経験をしています。そのときわたしたちは初めて、イエスにおいて、親しみ、大切に思うまなざし、偏見と糾弾のない姿、いつくしみのまなざし、他の人からは決して得られなかったものを味わうのです。そればかりか、イエスはわたしたちを遠くから眺めるだけでは満足なさらず、わたしたちと一緒にいたい、ご自分のいのちを分かち合いたい、そう望んでおられることも感じ取ったはずです。この体験がもたらす喜びによって、早く主を迎え入れたい、すぐに主とともにあって、主をもっとよく知りたいとの思いに駆られたのです。エリサベトとザカリアは、マリアとイエスを歓待しました。この年配の二人から、歓待の意味を学びましょう。ご両親やおじい様おばあ様に、また共同体のお年寄りに、神を歓待する、他者を歓待するとはどういうことか尋ねてみてください。先人たちの経験を聞くことは、皆さんにとってよい経験となるでしょう。

 親愛なる若者の皆さん。今こそ、具体的な出会いを目指し、すなわち、若いマリアと高齢のエリサベトの間にあったような、自分とは異なる人を本当の意味で迎え入れることを目指して、急いで再出発しなければなりません。そのような出会いだけが、世代間、社会階層間、民族間、あらゆるたぐいの集団や職業間の隔たりを乗り越え、戦争にさえも打ち勝たせてくれるのです。ばらばらに分断された人類に新たな一致をもたらす希望の星は、いつだって若者たちです。ですがそれは、彼らが過去についての記憶をもっていればこそであり、老人たちの語る悲劇や夢に耳を傾けていればこそのことなのです。「前世紀に戦争を体験した世代がいなくなりつつある今、ヨーロッパで戦争が再び起きたことは偶然ではないでしょう」(「第2回祖父母と高齢者のための世界祈願日の教皇メッセージ」)。歴史の教訓を忘れずに、この時代の二極化や過激主義を克服するには、若者と高齢者の連携が必要なのです。

 エフェソの信徒への手紙の中で、聖パウロは次のように告げました。「あなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し……ました」(2・13−14)。イエスは、あらゆる時代において、人類の抱える課題に対しての神からの返答です。そしてこの返答であるかたを、マリアはエリサベトに会いに行くときに、身に宿して運び届けたのです。マリアが高齢の親族に差し出した最高の贈り物、それはイエスを連れて来たことです。もちろん具体的な助けも、とても大切です。ですが、生ける神の幕屋となった聖母の胎におられるイエス以上に、ザカリアの家を大いなる喜びと意義で満たすものはなかったはずです。その山里で、イエスは一言も発することなくその存在だけで、ご自身にとって最初の「山上の説教」を語られます。つまり、神のいつくしみに身をゆだねる、小さな者たちやへりくだる者たちの幸いを、沈黙のうちに告げ知らせておられるのです。

 若者の皆さんへのわたしからのメッセージ、教会が伝えるべきもっとも重要なメッセージ、それはイエスです。そうです。主そのかたを、わたしたち一人ひとりへのその無限の愛を、その救いを、与えてくださった新たないのちを伝えたいのです。そして、マリアが手本となります。マリアは、このはかりしれない贈り物をわたしたちの人生にどのように迎え入れ、そのかたをどのように他の人々に伝えていくかを教えてくださり、次にはわたしたちを、キリストを運び届ける者、キリストのいつくしみに満ちた愛を運び届ける者、苦しむ人類へのイエスの惜しみない奉仕を運び届ける者にしてくださいます。

皆そろって、リスボンへ

 マリアは、皆さんとそう変わらない一人の若者でした。マリアもわたしたちと同じです。イタリア人のトニーノ・ベッロ司教は、マリアについて次のように書いています。「聖マリア。……あなたは絶海へ漕ぎ出す運命にあったことを、わたしたちはよくよく分かっています。ですがわたしたちが、あなたに岸辺を進むよう強いているのなら、それはあなたを、わたしたちのような沿岸航海のレベルに引き戻そうとしてではありません。わたしたちのいる失意の岸辺のすぐそばにあなたがおられるのを見て、わたしたちもまた、あなたのように自由の大海原を冒険するよう召されているのだという自覚に目覚めるからなのです」(Maria, donna dei nostri giorni, Cinisello Balsamo, 2012, 12-13)。

 3年の準備期間の最初の教皇メッセージで思い起こしたように、15世紀から16世紀にかけて、ポルトガルからは、多くの宣教師を含む大勢の若者たちが、イエスと結ばれた自分たちの体験を他の民族や国民と分かち合うために、見知らぬ土地へと旅立ちました(「2020年世界青年の日の教皇メッセージ」参照)。そして20世紀初頭、マリアはこの地に、特別な訪問をなさりたいと望まれました。マリアはファティマから、あらゆる世代に向けて、回心へと、真の自由へと招く、神の愛の力強く壮麗なメッセージを送りました。皆さん一人ひとりを、あらためて心から招待します。来年8月にリスボンで開催されるWYDで頂点を迎える、国を越えた青年の大巡礼に加わってください。それから、11月20日の王であるキリストの祭日に、世界中に散る部分教会で世界青年の日を祝いますので、そのことも覚えておいてください。これについて、教皇庁いのち・信徒・家庭省から先ごろ発表された文書、「部分教会における世界青年の日開催のための司牧指針」は、青年司牧にかかわるすべての人にとって大きな助けとなるはずです。

 親愛なる若者の皆さん。わたしは皆さんが、世界青年の日(WYD)に、神と出会う喜び、兄弟姉妹と出会う喜びを、もう一度体験できるよう願っています。ソーシャルディスタンスや外出制限を必要とした期間を長らく経て、リスボンで――神の恵みにより!――皆でそろって、民族や世代を超えて兄弟として抱き合う喜びを再び得られることでしょう。それは、和解と平和の抱擁、宣教する者の新たな友愛による抱擁です。聖霊がわたしたちの心に、起き上がり[出ていき]たいという情熱と、偽りの国境を捨ててシノドス流でともに歩む喜びの火を、かき立ててくださいますように。起き上がるときは、今です。急いで身を起こしなさい。そしてマリアのように、すべての人にイエスを伝えるため、自分のうちにおられるイエスを運んでください。人生の中のこのすばらしい時期にある皆さんは、聖霊が皆さんの中で進めてくださることを先延ばしにせず、前進し続けてください。皆さんの夢と歩みを、心から祝福いたします。

ローマ、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂にて

2022年8月15日、聖母の被昇天の祭日

フランシスコ

世界青年の日(王であるキリストの祭日)  1984年、あがないの特別聖年に、教皇ヨハネ・パウロ二世は大十字架(380cm)を聖ペトロ大聖堂の祭壇脇に設置し、それを「主イエスの人類への愛のしるし」として青年らに託しました。以来、この十字架は巡礼のシンボルとして諸国を旅しています。国連が定めた国際青年年(1985年)の受難の主日に、青年らはこの十字架とともに教皇のもとに集まりました。そして教皇は、毎年受難の主日を「世界青年の日」として祝うよう定め、以後2~3年に一度WYD(ワールドユースデー)が開かれるようになりました。  2020年に教皇フランシスコは、各方面の要望を踏まえ協議を重ねた結果、次年より世界青年の日を王であるキリストの祭日に変更すると発表しました。祝われる日は変わりますが、この日の中心にあるのはつねに、人類のあがない主イエス・キリストの神秘です。
2023年ワールドユースデーリスボン大会 大会テーマ:「マリアは出かけて、急いで山里に向かった」(ルカによる福音書第1章 39節) -開催日程 : 2023年8月1日から6日まで    2023年に開催が予定されているWYDリスボン大会は、ポルトガルの首都リスボンを開催地とする初めての大会となります。大会テーマとして、教皇フランシスコが選ばれたこの福音は、WYDパナマ大会テーマであった「よい知らせを受け入れる(聖霊がマリアに御子の誕生を予告し、マリアがそれを受け入れる)」エピソードの後に続き、エリザベトを訪ねるマリアの訪問記へと展開していきます。  ナザレのマリアは、神にただ「はい」といって受け入れるよう、わたしたちにキリスト者の通る旅路の模範的なあり方を示しています。マリアはすでにWYD大会の主人公であり、リスボン大会でも同様です。  特に若い人々の巡礼意欲への挑戦として、教皇フランシスコは使徒的勧告で「イエスはどこにわたしたちを派遣するのでしょうか。そこには境界も限界もありません。すべての人のもとにわたしたちを派遣します」(『キリストは生きている』177)と伝えています。 WYD公式サイト(ポルトガル語/英語)www.lisboa2023.org
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