カトリック北仙台教会

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2023年平和旬間(8月6日-15日)  日本カトリック司教協議会会長談話

2023年8月6日

2023年平和旬間  日本カトリック司教協議会会長談話

「人間のいのちの尊厳を守るものは」

1.いのちの尊厳に対する脅威と危機
 今から75年前、1948年12月10日、第3回国連総会は二度も繰り返された世界大戦がおびただしい尊い人命を奪い去ったことを深く反省し、世界人権宣言を採択しました。世界人権宣言は、その第1条で、「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である」と述べています。
 教会は、すべての人は神の似姿として造られそのいのちの尊厳を与えられているとして、「人間の尊厳は人間社会がつくりだしたものではなく、神によって与えられたもので、その尊厳に基づく権利は誰も侵してはならない普遍的な権利である」(司教団戦後60年平和メッセージ「非暴力による平和への道~今こそ預言者としての役割を」-2005年カトリック平和旬間-参照)と繰り返し主張し続けてきました。しかしながら、いまわたしたちの眼前で展開しているのは、神からのたまものであるいのちの尊厳をないがしろにし、暴力的に奪い去ろうとする世界の現実です。

2.ウクライナ戦争
 とりわけ、未だに解決の糸口さえ見えないウクライナへのロシアの武力侵攻は、多くのいのちを危機に直面させ、その尊厳を奪い続けています。いのちを守り平和を希求する多くの人の願いを踏みにじりながら、いのちの危機が深刻化しています。理不尽な出来事を目の当たりにして、その解決の糸口さえ見えない中で、世界は思いやりや支え合いといった連帯よりも、暴力によって平和を獲得することを肯定する感情に押し流されています。
 暴力を肯定する感情は、国家間の相互不信と相まって、武力による抑止力の容認につながり、日本においても自衛の名の下に武力の増強が容認されていることは憂慮すべき状況です。
 しかし暴力は、真の平和を生み出すことはありません。人間の尊厳は、暴力によって守られるべきものではありません。それは、いのちを創造された神への畏敬の念のうちに、互いに謙遜に耳を傾け合い、支え合う連帯によってのみ守られるものです。

3.在留資格のない子どもたちへの人道的配慮
 日本も例外ではありません。様々な状況の中で人間の尊厳が奪われ、尊いたまものであるいのちが危機に直面しています。諸々の問題点が指摘される中で、先般国会では、出入国管理及び難民認定法の改正案が可決成立しました。
 わたしたち日本カトリック司教団は、在留資格のない両親のもとに日本で生まれ育ち、強制送還の危機にさらされている300人ともいわれる子どもたちとその家族に在留特別許可を与えるよう、2022年3月25日に当時の古川禎久法務大臣に要望書を送付し、その後オンラインでの署名活動も実施いたしました。残念ながら、この子どもたちを含め、多くの人間の尊厳が危機に直面し続けています。
 ひとり一人のいのちには価値の違いはなく、その尊厳において平等であると主張する立場から、人間の尊厳を尊重し、必要な人道的配慮をしてくださることをこれまでもお願いし、またこれからも主張し続けて参ります。

4.排除をなくす連帯の必要性
 いのちの危機にさらされ、困難の中で希望を見失っている人たちへの無関心が広がる一方で、異なるものを排除することで安心を得ようとする社会の傾向も強まっており、排除や排斥によって人間の尊厳が危機にさらされる事態は深刻化しています。
 教皇フランシスコは、この3年間の感染症の状況の中で、よりよい未来を生み出すためには、連帯こそが不可欠だと主張し続けておられます。とりわけ弱い立場にある人への思いやりの重要性を説き、今年の復活祭には全世界へのメッセージでこう祈られました。
 「難民、追放された人、政治犯、家を離れざるを得なくなった人、特にもっとも弱くされ、飢餓や貧困、麻薬取引、人身取引、あらゆる種類の奴隷制のひどい影響を被っている人々を慰めてください。主よ、いかなる男女も差別されず、尊厳が傷つけられることはないと保証するよう、各国の指導者たちを奮い立たせてください。さらに人権と民主主義を完全に尊重することで、これらの社会的な傷が癒されますように。市民の共通善がいつも、それ単独で追求されますように。対話と平和的共存のために必要な安全と条件が保障されますように」

5.キリストの平和をわたしたちに
 わたしたち教会は、人間の尊厳を守り、すべてのいのちを大切にする社会の実現を希求し、思いやりと支え合いによる連帯が実現する社会へと変わっていくことを目指しています。
 困難な状況にあっても、互いに支え合い、ともに歩む連帯を、具体的な愛の行動で示している多くの方がおられます。誰も取り残されない世界を実現するために行動している方々は、不安と不信の暗闇に輝く希望の光です。
 教皇フランシスコは、先のメッセージを、こう締めくくっています。
 「いのちの主よ、わたしたちが自分の旅路を歩む中で、勇気づけてください。そして、あのご復活の晩に弟子たちになさったように、わたしたちにも繰り返しおっしゃってください。『あなたがたに平和があるように』(ヨハネ20・19、21)」
 わたしたちも、平和旬間にあたり、ひとり一人の人間の尊厳が守られ、その権利が尊重され、いのちが守られる平和な世界が実現するよう、「あなたがたに平和があるように」と呼びかけられる主の言葉に、力をいただき、平和の実現のために働き続けましょう。

2023年7月7日
日本カトリック司教協議会会長
カトリック東京大司教 菊地 功

<https://www.cbcj.catholic.jp/2023/07/20/27410/>

2023 Ten Days of Prayer for Peace ‘That which protects the dignity of human life’ A Message from the President of the Catholic Bishops’ Conference of Japan
: https://www.cbcj.catholic.jp/2023/07/20/27414/

「ラウダート・シ」デスクのウェブサイトの公開

2023年6月16日

教皇フランシスコの回勅『ラウダート・シ』が示す、神と、他者と、自然と、自分自身とのしかるべき調和をもって、一人ひとりはいのちの輝きを放ちつつ、皆でともに歩む道を目指し、学びと実践のヒントを提供するサイトです。

どうぞご利用ください。

✠ 訃報

2023年6月15日

仙台教区司祭 ミカエル 鷹觜 達衛神父様が、 2023 年 6 月 14 日 (水 14 時 40 分 に、 老衰のため帰天なさいました。95歳でした。
神父様は66年の長きにわた 司祭職を全うされ ました。 司教総代理や教区管理者など をはじめ、 幼稚園園長や病院理事長も歴任なさ いました。
神父様の永遠の安息のためにお祈りくださいますようお願い申しあげます。
なお、通夜並びに葬儀は下記の日程にて執り行います。

【通 夜】 6 月 1 6 日(金)1 8 時 ~:カトリック元寺小路教会大聖堂
司式・ ガクタン エドガル 司教
【葬儀ミサ】
6 月 1 7 日(土) 1 1 時 ~:カトリック元寺小路教会大聖堂
司式・ガクタン エドガル 司教
【火 葬】 6月 17 日(土 ) 1 3 時 3 0 分~
【埋 骨】 6月 17 日(土) 1 5 時 30 分

【略 歴】

19 28 年 4 月 12 日 盛岡市 生まれ
1956年 12月 22 日 ローマにて 司祭叙階
1958 年~ 北五十人町教会(現西仙台教会) 、大河原教会、畳屋丁教会、
亘理教会、元寺小路教会、鮫町教会、五戸教会、塩釜教会、
一関教会、千厩教会、大湊教会担当
各幼稚園園長
1998年~ 司教総代理、教区管理者
2000年~ 司教総代理
光が丘スペルマン病院理事長( 2016 年)
2004年 引退 (司祭の家
2023 年 6 月 14 日 帰天 95歳

髙木健太郎助祭 司祭叙階式

2023年4月29日

日 時:2023 年4 月29 日(土) 13:00~
場 所:カトリック仙台司教区センター 元寺小路教会大聖堂

Youtube 配信 : https://youtube.com/live/3WYmTwAnFQ4?feature=share

2023年 四旬節教皇メッセージ(2023.2.22)

2023年2月22日

2023年四旬節教皇メッセージ
四旬節の禁欲と、シノドスの歩み

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 マタイ、マルコ、ルカの福音書は、いずれもイエスの変容のエピソードを描いています。そこでは、弟子たちがご自分を理解できなかったことへのイエスの反応を見ることができます。その少し前、イエスが神の子キリストであると信仰告白した後にその受難と十字架の予告を否定したペトロと師との間には、激しい衝突がありました。イエスは彼をきつく叱責しました。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」(マタイ16・23)。それに続いて、「六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた」(マタイ17・1)のです。

 主の変容の福音は、毎年、四旬節第二主日に語られます。典礼暦のこの季節に、主はわたしたちを離れた場所へと連れていかれます。日々の仕事は、わたしたちを同じ場所にとどまらせて、繰り返しばかりで退屈なだけの毎日を送るよう求めますが、四旬節の間は、イエスとともに「高い山に登り」、神の聖なる民としての特別な霊的鍛錬、禁欲を実践するよう招かれているのです。

 四旬節の禁欲は責務で、恵みに支えられて行うものであり、信仰の足りなさや、イエスに従って十字架の道を歩むことへの抵抗を、乗り越えるためのものです。これこそまさに、ペトロや他の弟子がなすべきだったことです。師についての知識を深める、つまり、愛に促された完全な自己犠牲をもってなし遂げられた、神の救いの神秘を十全に理解し受け入れるには、離れて高みへと連れ出され、凡庸さと虚栄から切り離していただくよう、主に自らをゆだねなければなりません。努力、犠牲、集中を必要とする山登りのように、上り坂へと踏み出す必要があります。こうした要件は、わたしたちが教会として実現すべく専心している、シノドスの旅にとってもまた重要です。四旬節の禁欲と、シノドス的な体験との関係について考察することで、大きな収穫が得られるはずです。

 タボル山に「退かれる」際、イエスは類を見ない出来事の証人とするために選んだ、三人の弟子を連れていかれます。イエスは、恵みの体験が単独登攀とはならず、分かち合われるよう望んでおられます。わたしたちの信仰生活全体が分かち合われる体験であるのと同じようにです。わたしたちがイエスに従うのは、皆と一緒になのです。時を旅する教会としてもまた、皆で一緒に、典礼暦年を、その中の四旬節をともに過ごし、主が旅の仲間としてわたしたちに同行するようなさってくださる人たちとともに歩むのです。イエスと弟子たちがタボル山に登ったように、この四旬節の歩みは「ともに歩むもの(シノドス的)」といえるでしょう。唯一の師の弟子たちとして、わたしたちも同じ道を、ともに歩む旅路とするからです。イエスご自身が道であると知っているからこそ、典礼の旅においても、シノドスの旅においても、教会は救い主キリストの神秘に、よりいっそう深く、より十全に加わるばかりなのです。

 そうしてわたしたちは、最頂点にたどり着きます。福音書は、イエスの姿が「彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」(マタイ17・2)と述べています。ここが「頂」であり、旅のゴールです。登攀の終わりに、イエスとともに山頂に立つ三人の弟子たちには、超自然の光に輝く、栄光のうちにおられるイエスを目にする恵みが与えられます。その光は外からのものではなく、主ご自身から放たれているものでした。この光景の神々しい美しさは、弟子たちがタボル山に登った苦労をはるかにしのぐものでした。険しい山歩きでは必ず、道をしっかり見ていなければなりません。しかし最後に開ける眺望はわたしたちを驚かせ、その壮大さは褒美となります。同じくシノドスの歩みも、困難に思われることも多く、気力が失せることもあるかもしれません。けれども最後に待っているのは、間違いなく驚くべきもの、すばらしいものであり、それが、神のみ旨と、神の国に仕える使命を、よりよく理解させてくれるのです。

 タボル山での弟子たちの体験は、変容したイエスの傍らに、それぞれ律法と預言者を象徴するモーセとエリヤが現れたことでさらに豊かになりました(マタイ17・3参照)。キリストにおける新しさは、旧約の完成であるとともに約束の実現です。そのことは、神のその民との歴史から切り離せるものではなく、そこにある深い意味を明らかにします。同じようにシノドスの旅は、教会の伝統に根ざしつつ、さらに、新しさに対しても開かれています。聖伝は、新しい道を探すため、また現状維持の傾向、あるいは逆に場当たり的な傾向に陥らないようにするための、ひらめきの源泉です。

 四旬節の禁欲の旅も、それと似たシノドスの旅も、どちらも目的地は変容で、それを個人として、教会として目指しています。変容は、イエスのそれにその模範が見いだされるものですが、どちらの場合も、そのかたの過越の神秘の恵みによって起こるものです。この変容が今年、わたしたちにおいて実現するよう、進むべき二つの「道」を提案したいと思います。イエスとともに山に登り、イエスとともに目的地にたどり着くための道です。

 一つの道は、父なる神がタボル山で、変容したイエスを見つめている弟子たちに命じたことと関係します。雲の中からの声が語る「これに聞け」(マタイ17・5)です。このように最初の道しるべは非常に明確です。イエスに聞きなさい、ということです。四旬節は、わたしたちに語りかけてくださるかたに耳を傾けているかぎり、恵みの時です。では、イエスはどのようにわたしたちに語っておられるのでしょう。まずは神のことばにおいてであり、教会はそれを典礼の中でわたしたちに差し出しています。聞こうとしない耳から、こぼれ落ちることがありませんように。いつもミサに参加できるのではないなら、インターネットの助けを借りてでも、日々の朗読箇所に触れましょう。聖書ばかりではなく、兄弟姉妹を通しても、とくに、助けを必要としている人々の顔や生き方を通しても、主はわたしたちに語りかけてくださいます。もう一つ、シノドスの歩みにとってとても大切なことをいわせてください。キリストに耳を傾けることは、教会の兄弟姉妹に耳を傾けることを通してもなしうることです。このように相互に耳を傾け合うことが主たる目的となっている段階はいくつかあるのですが、いずれにせよ、シノドス流で行く教会の方法と様式においては、たえず必要不可欠なことです。

 御父の声を聞くと、弟子たちは「ひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れていわれた。『起きなさい。恐れることはない』。彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった」(マタイ17・6−8)。さて、今年の四旬節のためのもう一つの道しるべです。それは、現実と、そこにある日々の労苦、厳しさ、矛盾と向き合うことを恐れて、日常と懸け離れた催しや、うっとりするような体験から成る宗教心に逃げ込んではならない、ということです。イエスが弟子たちに示した光は、復活の栄光の先取りであり、そこに向けて、「彼だけ」に従って進まなければなりません。四旬節は復活祭へと至ります。つまり「退くこと」は、それ自体が目的なのではなく、復活に至るために、信仰と希望と愛をもって主の受難と十字架を生きる準備となるものなのです。シノドスの旅においても、神がわたしたちにある種の強い交わりの体験を恵みとして与えてくださったときに、たどり着いたのだとの思い違いをしてはなりません。そこでもなお、主はわたしたちに繰り返しておられます。「起きなさい。恐れることはない」と。ですから山を下りましょう。そして、経験した恵みに支えられ、共同体の日常生活の中で「シノダリティの職人」となれますように。

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん。この四旬節の間、イエスとともに山に登るわたしたちを、聖霊が鼓舞し支えてくださいますように。その神々しい輝きを体験し、それによって信仰が強められ、イエスとともに、その民の栄光と諸国の光を放ちつつ、皆で一緒に旅を続けることができますように。

ローマ
サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂にて
2023年1月25日
聖パウロの回心の祝日
フランシスコ

https://www.cbcj.catholic.jp/2023/02/24/26555/

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