カトリック北仙台教会

お知らせ

カトリック北仙台教会の催し物や信徒の皆様へのお知らせです。

インフォメーション

髙木健太郎助祭 司祭叙階式

2023年4月29日

日 時:2023 年4 月29 日(土) 13:00~
場 所:カトリック仙台司教区センター 元寺小路教会大聖堂

Youtube 配信 : https://youtube.com/live/3WYmTwAnFQ4?feature=share

2023年 四旬節教皇メッセージ(2023.2.22)

2023年2月22日

2023年四旬節教皇メッセージ
四旬節の禁欲と、シノドスの歩み

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 マタイ、マルコ、ルカの福音書は、いずれもイエスの変容のエピソードを描いています。そこでは、弟子たちがご自分を理解できなかったことへのイエスの反応を見ることができます。その少し前、イエスが神の子キリストであると信仰告白した後にその受難と十字架の予告を否定したペトロと師との間には、激しい衝突がありました。イエスは彼をきつく叱責しました。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」(マタイ16・23)。それに続いて、「六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた」(マタイ17・1)のです。

 主の変容の福音は、毎年、四旬節第二主日に語られます。典礼暦のこの季節に、主はわたしたちを離れた場所へと連れていかれます。日々の仕事は、わたしたちを同じ場所にとどまらせて、繰り返しばかりで退屈なだけの毎日を送るよう求めますが、四旬節の間は、イエスとともに「高い山に登り」、神の聖なる民としての特別な霊的鍛錬、禁欲を実践するよう招かれているのです。

 四旬節の禁欲は責務で、恵みに支えられて行うものであり、信仰の足りなさや、イエスに従って十字架の道を歩むことへの抵抗を、乗り越えるためのものです。これこそまさに、ペトロや他の弟子がなすべきだったことです。師についての知識を深める、つまり、愛に促された完全な自己犠牲をもってなし遂げられた、神の救いの神秘を十全に理解し受け入れるには、離れて高みへと連れ出され、凡庸さと虚栄から切り離していただくよう、主に自らをゆだねなければなりません。努力、犠牲、集中を必要とする山登りのように、上り坂へと踏み出す必要があります。こうした要件は、わたしたちが教会として実現すべく専心している、シノドスの旅にとってもまた重要です。四旬節の禁欲と、シノドス的な体験との関係について考察することで、大きな収穫が得られるはずです。

 タボル山に「退かれる」際、イエスは類を見ない出来事の証人とするために選んだ、三人の弟子を連れていかれます。イエスは、恵みの体験が単独登攀とはならず、分かち合われるよう望んでおられます。わたしたちの信仰生活全体が分かち合われる体験であるのと同じようにです。わたしたちがイエスに従うのは、皆と一緒になのです。時を旅する教会としてもまた、皆で一緒に、典礼暦年を、その中の四旬節をともに過ごし、主が旅の仲間としてわたしたちに同行するようなさってくださる人たちとともに歩むのです。イエスと弟子たちがタボル山に登ったように、この四旬節の歩みは「ともに歩むもの(シノドス的)」といえるでしょう。唯一の師の弟子たちとして、わたしたちも同じ道を、ともに歩む旅路とするからです。イエスご自身が道であると知っているからこそ、典礼の旅においても、シノドスの旅においても、教会は救い主キリストの神秘に、よりいっそう深く、より十全に加わるばかりなのです。

 そうしてわたしたちは、最頂点にたどり着きます。福音書は、イエスの姿が「彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」(マタイ17・2)と述べています。ここが「頂」であり、旅のゴールです。登攀の終わりに、イエスとともに山頂に立つ三人の弟子たちには、超自然の光に輝く、栄光のうちにおられるイエスを目にする恵みが与えられます。その光は外からのものではなく、主ご自身から放たれているものでした。この光景の神々しい美しさは、弟子たちがタボル山に登った苦労をはるかにしのぐものでした。険しい山歩きでは必ず、道をしっかり見ていなければなりません。しかし最後に開ける眺望はわたしたちを驚かせ、その壮大さは褒美となります。同じくシノドスの歩みも、困難に思われることも多く、気力が失せることもあるかもしれません。けれども最後に待っているのは、間違いなく驚くべきもの、すばらしいものであり、それが、神のみ旨と、神の国に仕える使命を、よりよく理解させてくれるのです。

 タボル山での弟子たちの体験は、変容したイエスの傍らに、それぞれ律法と預言者を象徴するモーセとエリヤが現れたことでさらに豊かになりました(マタイ17・3参照)。キリストにおける新しさは、旧約の完成であるとともに約束の実現です。そのことは、神のその民との歴史から切り離せるものではなく、そこにある深い意味を明らかにします。同じようにシノドスの旅は、教会の伝統に根ざしつつ、さらに、新しさに対しても開かれています。聖伝は、新しい道を探すため、また現状維持の傾向、あるいは逆に場当たり的な傾向に陥らないようにするための、ひらめきの源泉です。

 四旬節の禁欲の旅も、それと似たシノドスの旅も、どちらも目的地は変容で、それを個人として、教会として目指しています。変容は、イエスのそれにその模範が見いだされるものですが、どちらの場合も、そのかたの過越の神秘の恵みによって起こるものです。この変容が今年、わたしたちにおいて実現するよう、進むべき二つの「道」を提案したいと思います。イエスとともに山に登り、イエスとともに目的地にたどり着くための道です。

 一つの道は、父なる神がタボル山で、変容したイエスを見つめている弟子たちに命じたことと関係します。雲の中からの声が語る「これに聞け」(マタイ17・5)です。このように最初の道しるべは非常に明確です。イエスに聞きなさい、ということです。四旬節は、わたしたちに語りかけてくださるかたに耳を傾けているかぎり、恵みの時です。では、イエスはどのようにわたしたちに語っておられるのでしょう。まずは神のことばにおいてであり、教会はそれを典礼の中でわたしたちに差し出しています。聞こうとしない耳から、こぼれ落ちることがありませんように。いつもミサに参加できるのではないなら、インターネットの助けを借りてでも、日々の朗読箇所に触れましょう。聖書ばかりではなく、兄弟姉妹を通しても、とくに、助けを必要としている人々の顔や生き方を通しても、主はわたしたちに語りかけてくださいます。もう一つ、シノドスの歩みにとってとても大切なことをいわせてください。キリストに耳を傾けることは、教会の兄弟姉妹に耳を傾けることを通してもなしうることです。このように相互に耳を傾け合うことが主たる目的となっている段階はいくつかあるのですが、いずれにせよ、シノドス流で行く教会の方法と様式においては、たえず必要不可欠なことです。

 御父の声を聞くと、弟子たちは「ひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れていわれた。『起きなさい。恐れることはない』。彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった」(マタイ17・6−8)。さて、今年の四旬節のためのもう一つの道しるべです。それは、現実と、そこにある日々の労苦、厳しさ、矛盾と向き合うことを恐れて、日常と懸け離れた催しや、うっとりするような体験から成る宗教心に逃げ込んではならない、ということです。イエスが弟子たちに示した光は、復活の栄光の先取りであり、そこに向けて、「彼だけ」に従って進まなければなりません。四旬節は復活祭へと至ります。つまり「退くこと」は、それ自体が目的なのではなく、復活に至るために、信仰と希望と愛をもって主の受難と十字架を生きる準備となるものなのです。シノドスの旅においても、神がわたしたちにある種の強い交わりの体験を恵みとして与えてくださったときに、たどり着いたのだとの思い違いをしてはなりません。そこでもなお、主はわたしたちに繰り返しておられます。「起きなさい。恐れることはない」と。ですから山を下りましょう。そして、経験した恵みに支えられ、共同体の日常生活の中で「シノダリティの職人」となれますように。

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん。この四旬節の間、イエスとともに山に登るわたしたちを、聖霊が鼓舞し支えてくださいますように。その神々しい輝きを体験し、それによって信仰が強められ、イエスとともに、その民の栄光と諸国の光を放ちつつ、皆で一緒に旅を続けることができますように。

ローマ
サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂にて
2023年1月25日
聖パウロの回心の祝日
フランシスコ

https://www.cbcj.catholic.jp/2023/02/24/26555/

2023年第31回「世界病者の日」教皇メッセージ

2023年2月11日


「この人を介抱してください」。
シノドスの精神にかなう、いやしの実践としてのあわれみの心

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 病は、人間である以上わたしたちの経験の一角を占めるものです。しかし、ケアやあわれみがなく、隔離され放置されたままであるならば、それは非人間的なものとなるでしょう。一緒に歩んでいれば、体調を崩したり、疲れや想定外のことで途中で動けなくなったりする人がいるのは当たり前のことです。そういうときにこそ、わたしたちは自分の歩みを確認できます。つまり、本当に一緒に歩んでいるのか、それとも同じ道にはいても、それぞれ、自己の利益を優先し、ほかの人には「自分でどうにか切り抜けて」もらって、わが道を行っていないかということです。ですから、シノドスの旅の真っ最中のこの第31回世界病者の日に、皆さんによく考えてみてほしいのは、まさに虚弱さや病を知ることで、近しさ、あわれみ、優しさという神の流儀をもってともに歩むことを学べるのだ、ということです。

 預言者エゼキエルの書において、啓示全体の頂点の一つである偉大なお告げの中で、主なる神はこう語っています。「わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神はいわれる。わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。……わたしは公平をもって彼らを養う」(34・15−16)。迷い、病、弱さの経験は、わたしたちの旅には付きものです。そうした経験によって、わたしたちは神の民から追い出されるのではなく、むしろ、主のいちばんの関心の的となるのです。主は御父であり、ご自分の子らが旅の途中で一人として失われることを望まないかたです。ですから、使い捨て文化に毒されることなく、真にともに歩む共同体となるには、その神から学ばなければなりません。

 回勅『兄弟の皆さん』は、ご存じのように、よいサマリア人のたとえ話を新たに読み直しています。わたしはこのたとえを、「閉ざされた世界の闇」から抜け出し、「開かれた世界を描き、生み出す」ための軸として、転換点として選びました(56参照)。実際、このイエスのたとえ話と、今日、友愛が否定されている多くの状況との間には、深いつながりがあります。なかでも、虐げられ身ぐるみはがされた人が道端に打ち捨てられている様子は、あまりに多くの兄弟姉妹が、もっとも助けを必要としているときに置かれる状態を表しています。いのちと、その尊厳に対する攻撃のうち、どれが自然な原因によるもので、どれが不正義や暴力によるものかが区別しにくくなっています。実際、著しい格差と少数者による利益独占は、すでに人間環境の隅々にまで影響を及ぼしており、どんな経験も「自然なこと」とはいえなくなっています。すべての苦しみは、一つの「文化」の中で、そこにあるさまざまな矛盾の中で生じているのです。

 ともかく、ここで重要なのは、孤独な、見捨てられている境遇を認識するということです。その残忍さは、他の不正義よりも先に克服しうるものです。たとえ話にあるように、その根絶に必要なのは、目を向ける一瞬、つまりあわれみという心の動きだからです。宗教者とされている通りすがりの二人は、負傷した人を見ても立ち止まりません。一方、三番目の人物であるサマリア人は、侮蔑される側の人なのに、あわれみに心動かされて、道端の見知らぬ人を介抱して、兄弟同然に接しました。そうすることでその人は、意図せずに変化をもたらし、世界をより友愛あるものにしたのです。

 兄弟姉妹の皆さん。わたしたちは、病気に完全に備えておくことなどできません。年を取ることすら、受け入れられない人も少なくありません。脆弱さを恐れ、市場原理の支配する文化によって脆弱さを否定させられます。弱みを見せるわけにはいきません。そのため不幸に襲われ痛めつけられると、わたしたちはただぼう然とするのです。そうなると、他者から見捨てられてしまったり、また、他者の負担にならないよう、自分のほうから離れなければならないと思い込んでしまったりします。こうして孤独が始まり、わたしたちは、天さえもが閉ざされたと思えるような不正義に対する苦しみに毒されてしまいます。確かに、他者との関係、自分自身との関係が壊れてしまうと、神との平和を保つことが難しくなります。だからこそ、病についても、教会全体が真の「野戦病院」となるために、よいサマリア人の福音的模範に照らして自らの歩みを判断していくことが非常に重要なのです。わたしたちが今まさに経験している歴史的状況において、教会の使命は、まさしく、ケアの実践に表れます。わたしたちは皆、もろくて弱い存在です。立ち止まり、近づき、介抱し、起き上がらせる力のある、あわれみの心で注意を向けてもらうことを、皆が必要としています。ですから病者の置かれている状況は、無関心を打ち破る呼びかけであり、姉妹や兄弟などいないかのように突っ走る人々に、ペースを落とすよう訴えるのです。

 世界病者の日は、実際、祈りや、患者への寄り添いを呼びかけているだけではありません。併せて、神の民と、医療機関と、市民社会の、ともに歩むための新しい道についての意識向上も目的としています。冒頭に引用したエゼキエルの預言は、経済的、文化的、政治的支配者層が優先するものへの、実に辛辣な裁きも含んでいます。「お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物をほふるが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した」(34・3−4)。神のことばは、つねに照らしとなり、時宜にかなうものです。非難だけでなく、提案においてもそうです。事実、よいサマリア人のたとえ話の結末は、顔を寄せた出会いから始まる友愛の実践が、どのようにすれば機能的なケアに拡大できるかを示唆しています。宿屋、宿屋の主人、お金、状況を知らせ合う約束(ルカ10・34-35参照)――、このすべてが、司祭の奉仕職や、医療従事者やソーシャルワーカーの働き、家族やボランティアの献身を思い起こさせます。こうした人々のおかげで、毎日、世界各地で、善が悪に立ち向かえるのです。

 パンデミックの数年に、わたしたちの間で、医療やその研究のために日夜働いている人々への感謝の思いが強まりました。ですが、これほどの大規模な集団的悲劇から抜け出すには、英雄たちをたたえるだけでは不十分です。新型コロナウィルス感染症(COVID-19)は、専門技術と連携が生み出すその優れたネットワークを厳しい試練にさらし、既存の福祉制度の構造的な限界を明らかにしました。ですからその感謝の気持ちを、各国での保健政策と資源の積極的な追求につなげ、すべての人が医療を受け、健康を求める基本的権利が保障されるようにしていかなければなりません。

 「この人を介抱してください」(ルカ10・35)――、これは、サマリア人から宿屋の主人への依頼のことばです。イエスはこれを、わたしたち一人ひとりにも繰り返し語り、最後には「行って、あなたたちも同じようにしなさい」と勧めておられます。『兄弟の皆さん』で強調したように、「このたとえ話は、……益が共有されるよう、他者の弱さを自らのものとし、排除する社会を作らず、かえって隣人となって倒れた人を起き上がらせて社会に復帰させる人々から成る共同体を再構築できるイニシアティブを示しています」(67)。まさしく、「わたしたちは愛においてのみたどり着くことのできる充満のために造られた、ということです。他の痛みに無関心で生きるという選択はありえません」(68)。

 2023年2月11日には、現代世界のただ中で教会に託された、預言であり、教えであるルルドの聖所に目を向けましょう。働ける人だけに価値があるのではなく、生産性のある人だけが大切なのでもありません。病者は神の民の中心であり、神の民は、人類の預言である彼らとともに前進するのです。一人ひとりに尊い価値があり、だれも切り捨ててはならないという預言です。

 病者のいやし手、マリアの執り成しに、皆さん一人ひとりをゆだねます。病者の皆さん、病気の家族を世話する皆さん、仕事で、研究で、ボランティア活動で彼らを世話する皆さん、そして個人の、教会の、市民社会の友愛のきずなを築くために尽力する皆さん。すべての皆さんに、愛を込めて使徒的祝福を送ります。

ローマ、
サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂にて
2023年1月10日
フランシスコ

2023年キリスト教一致祈祷週間(1月18日~25日)

2023年1月18日

「善を行い、正義を追い求めなさい」(イザヤ1・17 参照)

2023年のキリスト教一致祈祷週間は、2023年1月18日(水)~25日(水)、全世界で行われます。今回のテーマは、「善を行い、正義を追い求めなさい」(イザヤ1・17 参照)です。

 毎年、キリスト教一致祈祷週間で使われる資料は、世界教会協議会(WCC)と教皇庁キリスト教一致推進省の共同事業として、各国から選ばれたキリスト教諸教会が協力して作成しています。
 2023年のキリスト教一致祈祷週間のテーマは、ミネソタ教会協議会が招集した米国のキリスト者グループによって選ばれ、資料が準備されました。このグループは、2020年12月に最初のオンライン会合を持ち、その後も検討を重ねてきました。2021 年9月19 日から23 日の間、キリスト教一致祈祷週間の資料をまとめる国際グループが、スイスのシャトー・ドゥ・ボッセーでミネソタ教会協議会の代表者と会合をもち、最終的な資料の準備を進めてきました。
 ミネソタ州は、長年にわたって全米における最悪の人種間格差を抱えてきましたが、ミネソタ教会協議会はこの歴史的な人種差別の問題に熱心に取り組み、最近では、ミネソタは人種差別撤廃の発信地となっています。キリスト教一致のための祈りは、ミネソタでの取り組みに見られるように、神の似姿としての尊厳をもって創造された人間であるわたしたちの間を隔てるものと格闘する中で行われるとき、さらに重要な意味をもつのです。

 日本でも、世界に広がる教会と心を合わせてキリスト者の一致を祈るため、カトリック中央協議会と日本キリスト教協議会が共同で翻訳した資料を小冊子『キリスト教一致祈祷週間』として発行し、ポスターとともにご案内しています。小冊子には以下の内容が盛り込まれています。

・その年のテーマの解説
・エキュメニカル礼拝式文
・八日間の聖書の黙想と祈り
・作成担当国のエキュメニズムの現状

 この小冊子は、キリスト教一致祈祷週間の期間だけでなく、一致を求める個人の祈りや共同の祈りのために年間を通して用いることができるよう配慮されています。

https://www.cbcj.catholic.jp/2022/11/22/25911/

第56回「世界平和の日」教皇メッセージ

2023年1月1日

第56回「世界平和の日」教皇メッセージ(2023年1月1日)

「だれも一人で救われることはない。
COVID-19からの再起をもって、皆で平和への道を歩む」

「兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです」(一テサロニケ5・1−2)。

1.このことばで使徒パウロは、テサロニケの共同体に、主の再臨を待つ間も、心と足を固く大地に着けて踏ん張り続け、歴史の現実と激動をよく見るようでありなさいと呼びかけました。ですからわたしたちには、この世界があまりに悲劇ばかりに見え、不正義と苦悩の暗く険しいトンネルに押し込まれていると感じたとしても、神を信頼し、希望に心を開いておくよう求められています。神は今ここにおられるかたとなり、優しさをもってわたしたちとともに歩んでおられ、疲弊するわたしたちを支え、何よりも、わたしたちの道を導いてくださっているのです。この思いをもって聖パウロは、眠らず目を覚ましていなさい、善、正義、真理を求め続けなさいと共同体を諭します。「ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう」(5・6)。眠らず目を覚ましていなさい、恐怖に、苦痛に、諦めに、身をすくめていてはなりません、飽きてはなりません、くじけてはなりません。そうではなく、もっとも闇の深まった時間に、夜明けの最初の光をとらえる歩哨のようでありなさいとの呼びかけです。

2.新型コロナウィルス感染症(COVID-19)は、突如わたしたちを闇へと突き落とし、日常の生活を揺るがし、やろうとしていたことや習慣を狂わせ、特権を手にする社会の表面上の平穏さえ乱し、混乱と苦しみを生み出し、多くの兄弟姉妹を死に至らしめました。
 唐突に課題が渦巻く中へ、そして十分な科学的知見すらない状況下に投げ込まれ、医療介護業界の従事者は、膨大な数の人の苦痛の対処と治療のために動員されました。同様に行政当局も、緊急事態の制度や運用面で思い切った措置を取らなければなりませんでした。
 COVID-19が、身体の症状に加えて引き起こしたのは、なお長期的余波を残す漠然とした不安感です。それは、長期間に及ぶ隔たりとさまざまな制約で悪化し、無視できないほどの影響を与え、多くの人や家庭の心を覆っています。
 さらにパンデミックは、社会構造や経済構造の弱い部分に打撃を与え、矛盾や不平等を露呈させたことも忘れてはなりません。多くの人の雇用の安定を脅かし、社会の中での孤立をいっそう広げることになりました。とりわけ、いちばんの弱者や困窮者において、それは顕著でした。たとえば、世界の多くの地域の、何百万人ものインフォーマル経済の労働者(訳注:国や自治体の法的枠組みの外で営まれている、生産や商売等の経済活動の従事者。とくに途上国に顕著。世界の就業者の6割、20億人以上が該当。ほとんどが社会保障制度の枠外に置かれている)のことを考えてみてください。外出禁止の間、職を失い、何の支援も受けられずにいました。
 こうした敗北感や悲嘆が生じる状況では、個人も社会も、そうそう前には進めません。そうした状況は、平和に尽力する取り組みを挫き、社会の分断、いら立ち、あらゆるたぐいの暴力を引き起こすからです。その意味で今回のパンデミックは、世界の比較的平和な地域をも揺さぶり、数え切れないほどの不備を露出させたように思われます。

3.3年経ってようやく、個人としても共同体としても、振り返り、学び、成長し、変わっていくための、時間が取れるようになりました。「主の日」に備える日常が戻ってきました。これまで何度も申し上げたことですが、危機を経ても同じということはありえません。よくなっているか、悪くなっているか、いずれかです。今日、それぞれでよく考えてみてください。今回のパンデミックから、一体何を学んだでしょうか。古い習慣の鎖を断ち切り、よりふさわしく心を整え、新しいことに挑むために、どんな新たな道を歩むべきでしょうか。前に進み、世界をよりよい場所にするために、どのようないのちのしるしと希望のしるしをつかんでいるでしょうか。
 脆弱さが人間の現実と一人ひとりの存在の特徴であることを実感した後に、間違いなくいえることがあります。それは、COVID-19の遺産として残された最大の教訓は、わたしたちは皆互いを必要としているという気づきであり、とてももろいものであるとはいえ、わたしたちの最大の宝は、等しく神の子どもであることに基づく人類の兄弟愛だという気づき、そして、だれも一人で救われることはないという気づきです。ですから、人類のこの兄弟愛の道をたどるという普遍的価値観をともに求め、促進することを急がねばなりません。進歩、テクノロジー、グローバル化の効果、これらに寄せる信頼は過剰であったばかりか、個人主義と偶像崇拝への酩酊を引き起こし、正義、協調、平和という望ましい保証を危うくしていることも学びました。この目まぐるしい世界では、格差、不正義、貧困、排斥といった拡大してきた問題が、不安や対立をしばしばあおり、暴力や戦争までも引き起こしているのです。
 パンデミックによってこれらすべてが明るみに出た一方で、好ましいものも目にすることができました。それは、謙虚さを好ましく取り戻したことであり、ある種の消費主義的な欲求を切り捨てられたことであり、他者の苦しみと窮乏に心を開くべく、利己心を克服するよう促す連帯感を新たにしたことであり、そしてまた、皆がこの緊急事態の悲劇をよりよく乗り越えられるようにとの、多くの人による、場合によって本当に英雄的な、惜しみない献身による取り組みです。
 この経験から、「ともに」ということばをあらためて中心に据えるよう、すべての人、民族、国家に訴える強い意識が芽生えました。平和を築き、正義を守り、悲痛な出来事を乗り越えるには、まさしく、ともにあること、兄弟愛と連帯のあること、それが必要なのです。事実、パンデミックに最大の効果を発揮した対応は、難局に対処するために、社会集団、公的機関と企業、国際機関が、個々の利害を脇に置いて、一致団結したことでした。兄弟的で私欲のない愛から生まれる平和だけが、個人の、社会の、世界の危機を克服できるのです。

4.COVID-19のパンデミックの嵐のピークは過ぎたという希望的観測を抱き始めた矢先、次なる恐ろしい大惨事が人類に大きな衝撃をもたらしました。新たな惨劇の始まりを見せつけられたのです。また別の戦争、――COVID-19に重なる面はあるものの、しかしながら、明らかに人間の罪である決断の積み重ねで引き起こされた戦いです。ウクライナでの戦争は、罪なきいのちを奪い、直接の被害者ばかりか、広く無差別に世界中で恐怖を増幅させています。何万キロも離れていても、小麦不足や燃料費高騰の例のように、その余波に苦しめられているのです。
 これは、わたしたちがコロナ後に希望し期待した世界とはまったく違います。事実この戦争は、世界各地でのあらゆる紛争同様、直接の当事者だけでなく、人類全体の敗北を意味しています。COVID-19のワクチンは開発されましたが、戦争終結のための有効な解決策はまだ見つかっていません。確かに、戦争のウイルスは、生体を冒すウイルスよりも克服が困難です。それは戦争が、人間の外から来るのではなく、罪によって腐敗した、人間の心の中から生じるものだからです(マルコ7・17-23参照)。

5.ではわたしたちに、何が求められているのでしょうか。まずは、あの非常事態の経験によって回心すること、つまり歴史の中で今こそ、わたしたちがこれまで用いて来た世界や現実の解釈基準を、神に変えていただくのです。わたしたちはもはや、個人や国家の利益になるものを守ることだけを考えていてはだめなのです。利益を守ることを、共通善に照らし、共同体意識をもって、言い換えれば普遍的兄弟愛に開かれた「わたしたち」として、考えていかなければならないのです。わが身の保護だけを求めていてはだめなのです。今こそが、わたしたち全員で、この社会と地球の治癒に取り組む時であり、より公正で平和な世界、真に共通する善の追求に真剣に取り組む世界に向け、基盤を築く時なのです。
 そのためには、またコロナ禍後のよりよい生のためには、基本的な事実を無視できません。すなわち、わたしたちがその渦中にいる道徳的、社会的、政治的、経済的危機は、すべて相互に関連しているということ、また独立した問題ととらえられていることがらも、実際はそれぞれ別の問題の原因や結果であるということです。ですからわたしたちは、責任と思いやりをもって、わたしたちの世界の課題に立ち向かうよう求められているのです。わたしたちがなすべきことは、すべての人への公的医療保障制度に再度取り組むこと、犠牲者と貧困を生み続ける紛争と戦争に終止符を打つための平和行動に着手すること、共通の家を一致団結してケアし、気候変動に取り組むための明確で効果的な対策を実行すること、格差というウイルスと戦い、すべての人に食糧とディーセントワーク(人間の尊厳にかなう職)を確保し、最低賃金さえ得られず困窮にあえぐ人たちを支援することです。飢餓に苦しむ民がいることはスキャンダルであり、わたしたちを傷つけるものです。とくに移住者や、社会から排除されて暮らす人に対し、適切な政策をもって、受容と共生を推し進めていかなければなりません。こうした状況にあっては、神の無限のいつくしみの愛に触れて生まれる、利他的希望をもって身を尽くすことで初めて、わたしたちは新しい世界を築き、愛と正義と平和のみ国である、神の国の建設に寄与できるのです。
 こうした反省を皆さんと分かち合いながら、歴史を教訓にして、ともに新しい年を歩んでいきたいと思います。国家元首および政府の長、国際機関の代表者、ならびに諸宗教指導者の皆さんに、新年の祝辞を申し上げます。善意あるすべての人が、その手で日々平和をこしらえる職人となって、よい一年となりますように。イエスの母、平和の元后、無原罪の聖マリアが、わたしたちのために、そして全世界のために執り成してくださいますように。

バチカンにて
2022年12月8日
フランシスコ

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