カトリック北仙台教会

お知らせ

カトリック北仙台教会の催し物や信徒の皆様へのお知らせです。

インフォメーション

2024年 四旬節教皇メッセージ

2024年2月14日

2024年四旬節教皇メッセージ

荒れ野を通り、神はわたしたちを解放へと導かれる

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 わたしたちの神はご自分を啓示なさると、解放を告げます。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」(出エジプト20・2)。シナイ山でモーセに授けられた十戒は、このように始まります。民は、神のいう導き出すこと(エクソドス)が何を指すのか、よく分かっています。奴隷の経験はなおも、彼らの肉に染みついているのです。彼らは荒れ野で、解放への道となる、契約の十のことばを受け取ります。わたしたちはそれを「おきて」と呼んでいます。神はご自分の民を愛をもって教えられましたが、その愛の強さを強調するためにです。解放への呼びかけは、事実力強いものです。それは一度でくみ尽くされるものではありません。途上で熟すものだからです。荒れ野にいたイスラエルの民がエジプトへの心残りを抱いていたように――実際、彼らは幾度も過去を懐かしみ、天とモーセに対して不平をぶつけます――、今日の神の民もまた、捨て去る決意をしなければならない、自分を苦しめるしがらみを内に抱えています。わたしたちがそれに気づくのは、希望を失い、荒れ果てた地にいるように人生をさまよい、ともに向かっているはずの約束の地が見えないときです。四旬節は、預言者ホセアが告げたように、荒れ野が再び、最初の愛の舞台へと戻る、恵みの時です(ホセア2・16−17参照)。神はご自分の民が奴隷状態から抜け出し、死から生へ渡る道を味わえるよう、教え導いてくださいます。花婿のように、わたしたちをご自分のもとに抱き寄せ、わたしたちの心に愛のことばをささやかれます。

 奴隷状態から解放への脱出は、抽象的な道のりではありません。わたしたちの四旬節も具体性をもたせるには、まずは事実を見ることが必要です。主なるかたは、モーセを燃える柴のもとに呼び寄せて話しかけるとすぐに、ご自分が神であること、見ておられる神、そして何より聞いておられる神であることを明かされました。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降(くだ)って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地……へ彼らを導き上る」(出エジプト3・7−8)。今日も、虐げられた多くの兄弟姉妹の叫びが天に届いています。心に問うてみましょう。その声は自分にも届いているだろうか。それに心動かされているだろうか。揺さぶられているだろうか。多くの要因によってわたしたちの間には隔たりが生まれ、初めの時よりわたしたちを結んでいる兄弟愛を否定するのです。

 ランペドゥーザ島の訪問時に、無関心のグローバル化について二つの問いを投げかけました。どちらも実に今を映し出しているものです。「どこにいるのか」(創世記3・9)、そして「お前の弟アベルは、どこにいるのか」(創世記4・9)――。四旬節の歩みを具体的なものとするには、もう一度これらの問いに耳を傾け、わたしたちは今なおファラオに支配されたままであると告白できなければなりません。わたしたちを疲弊させ、無感覚にする支配です。わたしたちを分断し、未来を奪う成長モデルです。土地を汚し、大気を、水を汚染し、そればかりか魂までをも汚すものです。わたしたちの解放は洗礼ですでに始まっているとしても、わたしたちの中には、奴隷状態への言い知れぬ郷愁が残っているからです。自由を犠牲にしてまでも、なじんでいるものの安心感に惹かれるのと同じです。

 出エジプト物語の、とても重要な細部を取り上げたいと思います。神が、見ておられ、心動かされ、解放してくださるのであって、イスラエルの求めによるのではないということです。まさしくファラオは、夢を砕き、天空を奪い、尊厳が踏みにじられ真のきずななどない世界が変わらず続くのだと思わせるのです。つまりファラオは、すべてが自分に従属するようにしておくのです。自分の胸に問うてください。新しい世界を望んでいるだろうか。同胞に対する責務を放棄しようとはしていないだろうか――。わが兄弟である多くの司教、そして平和と正義のために働く大勢の人の証言から、訴えるべきは希望の欠如である、その確信をいっそう強めました。それは夢見ることの妨げであり、天に届き神の心を打つ、声なき者の叫びです。荒れ野でイスラエルの民を惑わせ、前進を阻む、奴隷状態への郷愁に似たものです。脱出は、中断されうるのです。そうでなければ、世界規模での兄弟愛の実現を目前にしながら、科学、技術、文化、法制度が、万人の尊厳を保証しうる水準にまで発展しながら、格差と紛争の闇を進んでいることの説明ができません。

 神はわたしたちにうんざりなさることはありません。四旬節を、主のみことばが、今一度わたしたちに注がれる集中期間として大切にしましょう。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」(出エジプト20・2)。回心の時であり、解放の時です。毎年、四旬節第1主日に思い起こすとおり、イエス自身、霊に導かれて荒れ野に入り、ご自分の自由意志をもって試みを受けられました。40日の間、そのかたはわたしたちの先に、わたしたちとともにいてくださいます。そのかたは、人となられた御子です。ファラオとは異なり、神は臣民ではなく、子らを望んでおられます。荒れ野は、わたしたちの解放を、再び奴隷状態へと陥らないという個人の決意へと熟させるための場所です。四旬節の間に、わたしたちは新たな判断基準と、かつて足を踏み入れたことのない道へとともに繰り出す共同体とを見いだすのです。

 出エジプト記やイエスの荒れ野の誘惑がはっきりと伝えているように、そこには闘いがあります。「あなたはわたしの愛する子」(マルコ1・11)、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」(出エジプト20・3)という神の声は、まさに敵の偽りに反駁されています。ファラオよりも恐ろしいのは偶像です。偶像は、わたしたちの内に聞こえる敵の声だといえます。何でもできるようになりたい、だれからも認められたい、皆の上に立ちたい――。人はだれしも心の中に、この偽りの誘惑を感じるものです。それは踏み固められた道です。だからわたしたちは、お金に、何かしらの計画、考え、目標に、自分の地位に、慣習に、さらには特定の人に、執着してしまうことがあるのです。これらのものは、わたしたちを前方へと押し出すのではなく、動けなくさせるでしょう。わたしたちを一つに結ぶのではなく、対立させるでしょう。それでも、偽りの魅力に屈することのない新しい人類が、小さく、身を低くした人類が存在しています。一方で、偶像はそれに仕える者たちを、口のきけない、目の見えない、耳の聞こえない、動けない者にしていますが(詩編115・8参照)、心の貧しい人たちは、世をいやし、支える、善の静かな力へと、開かれ、整えられています。

 今こそ行動する時です。ですが四旬節の間の行動は、じっととどまることも含みます。神のことばを受け止めるためにじっくりと祈り、あのサマリア人のように、傷ついた兄弟姉妹にじっくり向き合うことです。神への愛と隣人への愛は、結ばれた一つの愛です。他に神々をもたないということは、わたしたちの隣人の肉体をとる神の現存に、じっくり向き合うということです。ですから祈り、施し、断食は、独立した三つの行為ではなく、開く、つまり明け渡すという、ただ一つの行為なのです。重くのしかかる偶像を手放し、自分をがんじがらめにする執着を捨て去ることです。そうなれば、萎縮し、断絶した心は目を覚ますでしょう。ですからテンポを落として、じっととどまってみてください。四旬節が気づかせてくれる、生活の中にある観想的な面は、新たなエネルギーを生み出すでしょう。神の現存において、わたしたちは兄弟姉妹となり、新たな熱意をもって他者を受け止めます。脅威や敵ではなく、旅の仲間となるのです。これこそが神の夢であり、奴隷状態から抜け出して向かおうとする先、約束の地なのです。

 教会のシノドス的な姿を、わたしたちはこのところ再認識し盛り立てようとしていますが、それは四旬節が共同体での決断の時でもあると示唆してくれます。個々人の日常を改め、地域の生活を変えうる、今の流れとは違う選択を大小さまざまに行う時です。購買の意識化、被造物のケア、社会から無視され見下げられている人たちの受け入れ、そうしたことを選択していくのです。すべてのキリスト教共同体に次のことを呼びかけます。ライフスタイルについてじっくり考える機会を信者に用意すること、あるいは、地域内での共同体の存在や、その地域をよりよくするよう行っている共同体の貢献について、確認する時間を取ることです。キリスト者の悔い改めが、イエスを悲しませるものであるなら大変です。イエスはこうも教えておられます。「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない」(マタイ6・16)。むしろ喜びに満ちた表情で、解放の香りを放ち、すべてのもの――もっとも小さく、いちばん近いところから始めて――を新たにする愛を解き放ちましょう。どのキリスト教共同体も、そうなれるはずです。

 この四旬節が回心の時となるならば、途方に暮れる人類は、創造力の揺さぶり、つまり新たな希望の閃光を感じることでしょう。昨年の夏にリスボンで会った若者たちに伝えたと同じことを、皆さんにも伝えます。「探し求め、思い切ってやってみる、探し求め、思い切ってやってみることです。この歴史的局面で、課題はうず高く、うめき声は悲惨です。わたしたちは散発的な第三次世界大戦のただ中にいます。ですが、断末魔の苦しみにあるのではなく、産みの苦しみの中にいるのだと考える覚悟でいましょう。壮大な舞台の幕切れではなく、幕開きに立っているのだと。そう考えるには勇気が必要です」(「WYDリスボン大会中の大学生への講話(2023年8月3日)」)。それこそが回心の勇気であり、奴隷状態から抜け出る勇気です。信仰と愛は、この小さな希望の手を取って進みます。信仰と愛が希望に歩みを教え、希望が信仰と愛を引っぱっていくのです1

 皆さんと、皆さんの四旬節の歩みに祝福を送ります。

ローマ
サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂にて
2023年12月3日
待降節第1主日
フランシスコ

  1. ^ シャルル・ペギー「第二徳の秘義の大門」、猿渡重達訳、『希望の讃歌――第二徳の秘義の大門――』中央出版社、1978年、61頁参照。

https://www.cbcj.catholic.jp/2024/02/07/29082/

世界代表司教会議(シノドス)第16回通常総会 第1会期「まとめ」報告書―宣教するシノドス的教会(2023.10.28)

2024年1月19日

世界代表司教会議(シノドス) 第16回通常総会 第1会期「まとめ」報告書 宣教するシノドス的教会

https://www.cbcj.catholic.jp/2024/01/19/28825/

1 2 49

pagetop