カトリック北仙台教会

お知らせ

カトリック北仙台教会の催し物や信徒の皆様へのお知らせです。

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親の背中

2012年8月2日

 4年前、子供の頃住んでいた場所を訪ねた。

 昭和10年頃、そこは40軒程の町内で、その殆どは、お店か 手に職を持つ人の仕事場であった。お店として今も残っていたのは、コンビニになった米屋、竹屋、床屋の3軒だけで、空き地になったところも数軒あった。

 私が住んでいた家は建て替えられていた。何方が住んでおられるかは知らない。表札を見るのは憚られた。
 空き地となった何軒かは 昔の住人を知っている。後継者がサラリーマンとなって、別な都市に住んでおられる。私も其処を離れた一人だ。

 昔は、お家が職場であり、生活の場であった。そこで仕事を習い覚え、多くの方は、その侭 家業を引き継いだ。生き様を 見様見真似で学んだ。お客との関係,世の付き合いも 其処で身に付けた。

親の背中を見て子は育つ」は当時のこと。今は聞かない。「働く親の姿」は見えなくなっている。土日・祭日でも家族との時間が取れない人が増えている

 孫達の世代は、テレビやスマホの存在を無視できない。大学進学と同時に親元を離れている。ゼミの影響は大きい。

 サラリーマンだった私の子供達は どうだろう。倅は言わないが、娘の口から遠慮のない言葉が出ることがある。それは、私も口に出さなかったが、ある時は反面教師として親を見ていた事と通じるものがあり、案外健全な関係だと思っている。

 「変わる1秒の重み」…7月5日(水)、「クローズアップ現代」のテーマ。極限を求め続ける世界。それとは全く別な世界がもう一つある。その世界をこそ誠実に生きたい。孫にも曾孫にも伝えたい、感じ取って貰いたい。

 余談で恐縮ですが、先月 曾孫が誕生しました。可愛い女の子です。(GG)

常に新しい創造へ

2012年7月22日

7月16日 北仙台教会からチャーターバスで仙台司教区75周年の締めくくりである岩手県大会に向いました。会場の盛岡白百合学園ではお揃いのテーシャツ姿の方々が温かく迎えてくださり、約800名の賛美の歌声が講堂に響き渡りました。檀上中央には絆のロウソクが灯され、震災を受けた地で捧げられた祈りと奉仕を証して輝いていました。

わたしがこの大会で感銘を受けたことを分かち合いと思います。それは岡田大司教の講話で、「神は天地を創造されただけではなく、今も新しい創造を続けておられる。」というメッセージでした。よく耳にする「新しい創造」は分かっているようでその実、なにかピントくるものがなかったのです。「そっかあ!では、わたくしたちはその協力者なのだ!」と腑に落ちた思いがしました。「神は今も創造される。私たちに力を注ぎ、明日を創るための知恵と勇気を与えてくださる。毎日は創造の日々。悪との戦いの日々である。」と続けられました。

今日、わたしは神様とどのようなことを創造をするのだろうか?ワクワクした思いが溢れてきました。
(MM)

年代

2012年7月7日

 アパンゲールとアプレゲール。この間に位置するのが「戦中派」の私達です。

40歳前後の第2次ベビーブームの人達は、「アラフォー」?。
 この年代の人々のことは、よく分からない。書いたものによると「物心ついたときから日本経済は失速中」だったのだろうか。強い口調で「アラフォーと言われたくない」という言葉を耳にすることがある。私達が知らない苦労を背負っておられる様に思う。

今は死語とも言えるが、1986年の新語・流行語大賞にもなった「新人類」と呼ばれる人達も居た。
 「アラフォーの前」「1961年から1970年生まれ」、秋元康・松田聖子・小泉今日子・工藤公康・清原和博などの名が挙がる。
 調べてみると「従来とは異なった感性や価値観、行動規範を持った若者」とある。だとすれば、新人類とその後のアラフォーも 解らないと言うより 私の年代には 理解できなかった と言った方が適当なのだろう。

  最近、もっと解らない言葉に出くわしている。「ソーシャル時代の新しい働き方」。

 6月2日のNスペ「雇用の劣化を食い止めろ」では、「ライフスタイルに合わせた働き方」と「時間と場所の制約を受けずに働く”ノマド”という新しい働き方」が中心話題であった。「ノマド」は、他日、民放でも取り上げていた。

 「ノマド」は「遊牧民」のことであり、「場所と時間の制約を受けないで…」というが、私は「人との関係も、サラサラ、あっさり、極めて流動的」であり「個性的で、枠にはまらない恵まれた才能の持ち主」が主役と感じた。
 働き場所としての「ツイッターのフォロワー数が3万を超えている」という。「ノドマ」、この言葉は、2010年の「新語検索」に載っていた。私の身辺では知られていなかった言葉であり、事柄だった。

 物心ついた時、「家にテレビがあったのが新人類」「パソコンで遊んだのがソーシャル時代の若者」と言う。
 今、朝ドラが珍しく人気だと。何が人を引きつける?私には「梅ちゃんの親父」に自分の父親を思い出し、自分の悪い姿を見る様な気もしている。でも、それは格好良すぎる?雰囲気が今とは違う。

 6月23日(土)、この日一日の新聞に、過去60年の歴史が載っていた。こんな日は珍しいと思う。
 「沖縄慰霊の日 第40回」・「東北新幹線開業 30年」・「オウム高橋容疑者逮捕 懸賞金支給2人 配分は?(17年前の事件であるが、極めて現代的記事)」・「オスプレイ 沖縄配備進める 米国防総省説明 安全性問題なし」。
 更に現代的で、深刻なのが「人生終末の在り方」(河北抄)。関連して思い出したのが2枚の切り抜き。6月19日毎日の「弔いのかたち 直葬」。6月16日毎日投書欄の「役割大きくなる臨床僧」。

 「河北抄」(6月18日)に梅雨に関する語彙が13も挙がっていた。「梅雨」も色々な顔を持っている。「年代」と一言で言っても、「人々の体験は、数え切れない程 多様なものがあった」であろう。

 「梅雨しとど」の中に「梅雨ごもり」であったが、今日 6月25日は、梅雨の中休みで上天気。私の「日記」も一区切りついて中休み。庭から見た朝の光を写真にしました。(GG)

7月の祈り

2012年7月2日

もう7月ですね。一年の半分が過ぎてしまいました。あなたにとってどんな半年でしたか。アユ釣りも解禁され、本格的な夏も近づいてきています。(MM)

このホームページを訪れたあなたへ

今日のこの出会いが、祝福に満ちたものとなりますように。

喜び、悲しみ、苦しみ、楽しみを私たちが互いに分かち合い、

私たちをいつも導いておられる神の御手のあたたかさを

ここで共に味わうことができますように。

自分ひとりのことに心を向けるのではなく、

神のもとに兄弟姉妹である多くの人々のことを知り、

神の大きないつくしみのうちに、

共に心を豊かに開きあうことができますように。

私たち一人一人の人生が限りない喜びに向かっていることを確認し、

あらためて希望のうちに共に未来に向かうことができますように。

私たちの主、イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

イエスさまの愛を信じて

2012年6月27日

どんなときでも、どんなときでも
苦しみに負けず、くじけてはならない。
イエスさまの、いえすさまの
愛をしんじて。

どんなときでも、どんなときでも
しあわせをのぞみ、くじけてはならない。
イエスさまの イエスさまの
愛があるから。

これは、幼稚園などて使われる「こどもさんびか」や「讃美歌21」におさめられている、讃美歌の歌詞です。
この詩を作ったのは、福島に住んでいた高橋順子さんという少女です。

高橋さんは8歳で病気のため天に召されました。
この詩は高橋さんが病床で書いた詩だということです。
遊びたい年頃なのに、病気と闘い、苦しい治療に耐えなくていたのでしょう。
それなのに、大人だって、弱音を吐いてしまいそうな状況の中で、すべてを神様にゆだね、まっすぐに神様を見つめていたこの少女の力強い信仰に心うたれます。

高橋さんのこの世での生は短いものでしたが、彼女が遺した詩によって、多くの人が勇気づけられ、そして、希望を与えられていることでしょう。
私もその一人です。

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