カトリック北仙台教会の催し物や信徒の皆様へのお知らせです。
年間第4主日の朗読箇所は、第一朗読が『申命記』(申命記18:15~20)、第二朗読が『使徒パウロのコリントの教会への手紙』(コリントの信徒への手紙一7:32~35)
福音朗読が『マルコによる福音』(マルコによる福音書1:21~28)です。この日の福音は、汚れた霊(悪霊)を追い出すイエスの姿をわたしたちに伝えています。来週(年間第5主日)の福音で朗読される、病人をいやすイエスの姿とともに、これらの出来事はある大切なメッセージをわたしたちに伝えています。そのメッセージとは、先週(年間第3主日)の福音で朗読された「神の国の到来」です。イエスが声高らかに宣言された「神の国の到来」、それは「神の支配の始まり」を意味します。この世の富や権力、それらによってわたしたちを支配しようとする王ではない、まことの王、それは誰なのか。しっかりと見極める必要があります。このことを確認するために、わたしたちは毎週日曜日、ともに集まり、主の祭壇を囲みます。イエスの死と復活を通してわたしたちに示された神秘、大切なメッセージを忘れないために、ともに集まる事が出来ない今こそ、わたしたちは祈りによって結ばれ、心ひとつに神のことばに耳を傾けましょう。こうして結ばれたわたしたちこそ、キリストの神秘体である教会の姿を世に証することができます。
年間第5主日の朗読箇所は、第一朗読が『ヨブ記』(ヨブ記7:1~4,6,7)、第二朗読が『使徒パウロのコリントの教会への手紙』(コリントの信徒への手紙一:16~19,22,23)、福音朗読が『マルコによる福音』(マルコによる福音書1:29~29)です。第二朗読では、福音を告げ知らせるために「すべての人の奴隷に‥すべての人に対してすべてのものになった」パウロの言葉が朗読されます。かつて聖ドミニコが、異端カタリ派と向き合うために彼らのもとへ出向いたように。マザー・テレサ(コルカタの聖テレサ)が修道会を出て、イエスの兄弟姉妹である小さな人々への奉仕に生きたように。わたしたち信徒だからできること、現実のただ中で生きるわたしたちにしかできないこと。どんな苦しみの時にも、困難にあっても、目には見えないが「ともにおられる神」「今も生きておられる神」を信じ、日々の務めを忠実に果たして捧げること。それが暗闇に真理の光を輝かせることにほかなりません。このささやかな奉献が聖なるものとなるよう、日々祈り続けましょう。祈りには物事を変える力があります。わたしたちを変える力、それは祈るわたしたちに神が注いでくださる恵みなのです。
灰の水曜日(2/17)も公開ミサはありませんが、各自で朗読箇所を味わい、四旬節を迎えるに相応しく過ごしましょう。聖なる断食(大斎・小斎)によって、回心の恵みが強く注がれますように。第一朗読『ヨエル書』(2:12-18)、第二朗読『コリントの信徒への手紙二』(5:20-6:2)、福音朗読『マタイによる福音書』(6:1-6,16-18)となります。「隠れたことを見ておられる父」の計らいを信じ、その摂理のうちに、すべてを神に委ねましょう。わたしたちの主イエスのように。
今年も四旬節を迎えました。四旬節第1主日のミサでは、『マルコによる福音書』(1:12-15)が朗読されます。40日間、荒れ野で誘惑を受けられたイエス。わたしたちもまた、日々誘惑にさらされています。限られた時間の中で、わたしたちの限りある命を、命を授けてくださった神に捧げ尽くすことができるのか。起きているときも、眠っているときも、すべてを父なる神に捧げているか。祈りと断食によって静かに神と向き合い、深く反省したいものです。すべてを祈りとして捧げ尽くしたとき、わたしたちの生涯は完成されます。イエスが十字架の苦しみを捧げ尽くして、その使命を全うされたように。十字架の先には、栄光に満ちた復活が輝いています。希望を持って信仰の歩みを続けましょう。ミサの第一朗読は『創世記』(9:8-15)、第二朗読は『ペトロの手紙一』(3:18-22)です。
いつも通り、9:00から公開ミサとなります。第1朗読は『創世記』(創世記 22:1,2,9a,10-13,15-18)、第2朗読は『使徒パウロのローマの教会への手紙』(ローマの信徒への手紙 8:31b-34)、福音朗読は『マルコによる福音』(マルコによる福音書 9:2-10)が朗読されます。第1朗読で、愛する独り子「イサクをささげよ」という神の命令にただ従おうとするアブラハムに、「あなたが神を畏れる者であることが、今、分かった」と神は語られます。福音では「これはわたしの愛する子。これに聞け」と神は語られます。祈りと断食、様々な償いの業を通して、神との関係を再び結び直そうとする四旬節に、わたしたちは神に聞き従っているかどうかを、今日のミサを通して考えてみたいものです。神に従った多くの聖人たち、預言者、苦しみを通して主に結ばれているわたしたち。十字架の死に至るまで神に従ったイエスの姿を思い起こし、深く思い巡らしましょう。
3月11日で東日本大震災から10年となります。四旬節第3主日(3/7)のミサは、東日本大震災で犠牲となられた方々の追悼と、震災からの復興を願ってささげます。またこのミサの中で「性虐待被害者のための祈りと償いの日」(3/5)の共同祈願を併せてささげます。朗読個所は、第一朗読が『出エジプト記』(20:1~17)、第二朗読が『コリントの信徒への手紙』(1:22~25)、福音朗読が『ヨハネによる福音書』(2:13~25)です。宣教という愚かな手段(コリントの信徒への手紙1:21)によって、わたしたちが使徒パウロや聖ドミニコから伝えられたもの。そしてわたしたちが彼らに代わって伝えていかなければならないもの、それが十字架につけられたキリスト、神の力、神の知恵であるキリストです。10年前の出来事は、わたしたちにとって忘れることができません。20,000人近い兄弟姉妹の命が震災によって失われたこと。愛する家族を失った苦しみとともに生き続けている兄弟姉妹の存在。希望を見いだせないまま今も暗闇から抜け出せない兄弟姉妹の現実。「神殿を三日で立て直す」イエス、その死者の中からの復活こそ、わたしたちを真の希望へと導くものです。わたしたちはことばだけでなく、行いをもって福音を証しなければなりません。それが、現実社会の中で生きているわたしたち信徒に課せられた使命なのです。口で言うのは簡単なことです。それを日々実行することは難しいことですね。だから祈りましょう。聖霊の導きのうちに、ともにおられる神の存在を信じて。
四旬節第4主日の朗読箇所です。第一朗読『歴代誌下』(36:14~16,19~23)、第二朗読が『エフェソの信徒への手紙』(2:4~10)、福音朗読が『ヨハネによる福音書』(3:14~21)になります。第一朗読では「神の御使いを嘲笑い、その言葉を蔑み、預言者を愚弄する人々」の姿と、彼らに対する主の怒りが朗読されます。バビロン捕囚と捕囚からの解放を経て、わたしたちのもとに遣わされた救い主の誕生を「独り子をお与えになった神の愛」とヨハネは描いています。今目の前にいる人が御使いならば、まして神の独り子ならば、決して嘲笑ったりしないし、蔑んだり嘲笑ったりしない。そう誰もが考えます。でも考えてみてください。それなら、どんな相手、どんな人を嘲笑い、蔑み、嘲笑っていいのでしょう。真理を行っているつもりで、実は悪を行っているということはないでしょうか。心がかたくななのは、旧約聖書の登場人物だけではありません。共におられる神の前で、わたしたちのかたくなな態度や考えが、結果的に光よりも闇の方を好んでいるとすれば‥。だから償いの時、回心の時です。四旬節というこの恵みの時を大切に過ごしましょう。
新型コロナウィルス感染症対策のため、公開ミサは中止となりました。大変残念なことですが、四旬節第5主日に朗読される聖書の箇所は次の通りです。第1朗読『エレミヤ書』(31:31~34)、第2朗読『ヘブライ人への手紙』(5:7~9)、福音朗読『ヨハネによる福音』(12:20~33)。「多くの苦しみによって従順を学ばれたキリスト」(ヘブライ5:8)は、「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え」(ヨハネ12:26)、そうわたしたちに呼びかけておられます。必ずしも逆らっていなくても、聞いても素直に従おうとしなければ不従順になります。日々聖書に書かれた「みことば」を聞くわたしたち、果たして神の呼びかけである「みことば」に従って生きているでしょうか。「私の律法を彼らの胸に授け、彼らの心にそれを記す」(エレミヤ31:33)と、キリストによる新しい契約を神はエレミヤを通して約束されました。わたしたちの心に何が書き記されているのか、しっかりと振り返る必要があります。様々な苦しみや困難、試練の中にいるわたしたち。かつてイエスもまたこれら苦しみの中にあったのです。でも、イエスとわたしたちの大きな違いを挙げるとすれば、つい自分に頼ってしまうわたしたちの姿と、神に絶対的信頼を置くイエスの姿の違いではないでしょうか。「人には変える力がない、でも神にはできる(神にはできないことはない)。」これは、偉大な旧約聖書の研究者の言葉です。新型コロナウィルスのために、ともに集まりミサをささげられない、この苦しみの時にこそ、困難や苦しみを神にささげ、イエスのように従順を学んで参りましょう。苦しみはわたしたちをキリストと結びつけます。十字架の苦しみによって、わたしたちは一つになることができるのです。
聖週間の始まりを告げる受難の主日には、第一朗読で『イザヤ書』(50:4~7)、第二朗読で『フィリピの信徒への手紙』(2:6~11)、福音朗読で『マルコによる福音書』(15:1~39)が朗読されます。「神の子イエス・キリストの福音の初め。」(マルコ1:1)として始められたマルコによる福音書、その終わり近く、イエスの死去の場面で、「本当に、この人は神の子だった」と百人隊長がイエスを称えます。「死に至るまで、それも十字架の死に至るまで」(フィリピ2:8)従順だったイエスの姿を、深く思いめぐらしましょう。わたしたちは、日々の生活の中で生じる困難や苦しみを受け入れているでしょうか。あるいは避けようとしているでしょうか。つい自分の思い通りにならないことで不平不満を漏らしてはいないでしょうか。真剣に生きようとしているから、本気で生きているから、ほかの人から見れば「何だそんなことで」「その程度のこと」と思われることも、自分にとっては大きな問題となっているかもしれません。でも、十字架のイエスに向かい、目に見えない神の思いと向き合うとき、もっと大切なことに気付かされることになるでしょう。「楽をすれば損をします」これは、あるドミニコ会士の言葉です。今日は、キリストの受難を思い起こしながら、苦しみの意味を深く思いめぐらしましょう。鏡に自分の姿が映し出されるように、キリストの十字架の上に、わたしたちの心をしっかりと映し出してみましょう。
主の御復活、おめでとうございます。この喜びを忘れないために、わたしたちは毎週日曜日に集まり、主の祭壇を囲んでミサをささげてきました。コロナ禍にあって、ともに集まることができなくても、『イエスの復活を忘れないために』毎週日曜の午前9時(北仙台教会のミサの時間)には祈りをささげる、祈りの時を持つ、心を一つに神に向ける習慣を守り続けましょう。「教会の祈り」「聖書朗読」「ロザリオの祈り」「念祷」など、できることを継続いたしましょう。わたしたちの教会はドミニコ会の教会のため、ドミニコ会の司祭が常住しています。密にならないよう、個々人が霊的指導を受けることが可能です。神父様の御都合を確認しながら、各自が信仰を守るために、必要な助けを願いましょう。くれぐれも感染防止に努め、無理をせず、今こそわたしたちの信仰を証して参りましょう。聖母マリアと聖ドミニコの取り次ぎを願いつつ。