カトリック北仙台教会

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2022-23年第37回「世界青年の日」教皇メッセージ

2022年11月20日

「マリアは出掛けて、急いで……行った」(ルカ1・39)

 親愛なる若者の皆さん

 ワールドユースデー(WYD)パナマ大会のテーマは、「わたしは主のはしためです。おことばどおり、この身になりますように」(ルカ1・38)でした。この大会を終え、わたしたちは新たな目的地である2023年リスボン大会への道を歩み始めており、神からの緊急の呼びかけを心に響かせているところです――起き上がれ。2020年は、「若者よ、あなたにいう。起きなさい」(ルカ7・14)というイエスのことばを味わいました。昨年は、復活した主から次のようにことばをかけられた使徒パウロの姿を手掛かりとしました。「起き上がれ。わたしはあなたを、あなたが見てきたことの証人にする」(使徒言行録26・16参照)。リスボンにたどり着くまでの最後の段階に寄り添ってくださるのは、お告げを受けた直後に、いとこのエリサベトのもとへと「出掛けて[訳注:「出掛ける」と訳されているのは、他で「起き上がる」と訳されているものと同じ語]、急いで……行き」(ルカ1・39)助けようとしたナザレのおとめです。この三つのテーマに共通する動詞は「起き上がる」です。このことばには「再び起きる」、「いのちがよみがえる」という意味もあることは、覚えておいてほしいと思います。

 パンデミックによって受けた傷に苦しめられていた人類が、戦争の悲劇によってずたずたにされる、そのあまりにつらいこの時に、マリアはすべての人のために、とりわけあなたがた、マリアと同じく若い皆さんのために、近しさと出会いの道を再び開いてくださいます。わたしは、来年8月にリスボンで多くのかたが経験することが、若者の皆さんにとって、そして皆さんとともに、全人類にとって新たな出発点となるよう希望し、またそうなることを固く信じています。

マリアは出掛けて

 お告げを受けた後ですから、マリアは新たな事態による心配事や不安の中、自分のことで頭がいっぱいになっていてもおかしくありません。ところがそうではなく、マリアは神を信頼しきっておられます。さらには、エリサベトのことを案じています。マリアは起き上がり[出掛けて]、活力と動きとがある、陽の光のもとへと飛び出していきました。衝撃的な天使のお告げは、彼女の人生の計画に「地震」をもたらしましたが、この少女は立ち尽くしはしません。その胎にイエスが、復活の力であるかたがおられるからです。マリアはすでに、ほふられた小羊でありながら永遠に生きておられるかたを宿しておられるのです。彼女が起き上がって動き出せたのは、神の計画こそが、自分の人生の最高の青写真だという確信があったからです。マリアは神の神殿となり、旅する教会の姿、出向いて仕える教会、よい知らせを伝える教会の象徴となっています。

 人生において、復活したキリストの現存を体験すること、「生きておられる」このかたと出会うことは、最高の霊的喜びであり、だれにも「抑える」ことのできない光の大爆発です。これによってわたしたちは、直ちに突き動かされ、この知らせを他の人々に伝えるよう、この出会いの喜びをあかしするよう駆り立てられるのです。復活後の日々で最初の弟子たちをせきたてたものは、まさしくこの出会いです。「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」(マタイ28・8)。

 復活の物語には、「目覚める」と「起き上がる」という二つの動詞が頻出します。この二つのことばで主はわたしたちに、光の中に出て行きなさい、自分の閉じた扉のすべての敷居をまたいで出て行くよう主に導いていただきなさい、そう促しておられます。「それは、教会にとって深い意味をもった姿です。わたしたちもまた、主の弟子として、またキリスト者の共同体として、復活のダイナミズムに加われるよう、そして主が示そうとしておられる道に導いていただけるよう、急いで身を起こす[出掛ける]ことが求められています」(「聖ペトロ聖パウロ使徒の祭日のミサ説教(2022年6月29日)」。

 主の母は、活動する若者の模範であって、鏡の前で自分ばかり見て動かずにいる人や、ネットに「がんじがらめになっている人たち」とは違います。マリアは完全に外を向いています。このかたは自分の外に出ていき、偉大な相手であるかた、神のもとへ、また他の人々、兄弟姉妹のもとへ、とりわけ、いとこエリサベトのように、とても困っている人のもとへ向かう、つねに脱出状態のパスカ(過越/復活)の女性なのです。

急いで……行った

 ミラノの聖アンブロジオは『ルカ福音書註解』の中で、マリアが急いで山里に向かった理由について次のように書いています。「希望で胸躍り、奥からわき出る喜びで、奉仕に献身したいと熱望したからです。今や、神に満たされたマリアがはやる思いで向かう場所は、高いところ[訳注:エリサベトのもとに行くには山を越えなければならない]のほかにあったでしょうか。聖霊の恵みは、悠長にはさせません」。マリアが急ぐのは、奉仕に、喜びを告げることに、聖霊の恵みに即こたえることに、急いでいるからです。

 マリアは、年老いたいとこの困り事にこたえようとしています。尻込みしたり、無関心でいたりはしませんでした。自分のことよりも他者のことを思っていました。だから彼女の人生には、躍動感と熱意が生まれるのです。皆さん一人ひとりが考えてみてください。身の周りでだれかの困り事に気づいたとき、自分はそれにどうこたえるのか。すぐさま、かかわらないことの言い訳を考えるのか、それとも関心をもって自分自身を用立てるのか。もちろん、世界中の問題をすべて解決できるわけはありません。それでも、身近な人の困り事から、自分の住んでいる地域の問題から、始めることはできるはずです。かつてマザー・テレサは、「あなたのしていることは、大海の一滴にすぎない」といわれたことがあります。彼女はそれに、「でもわたしがしなければ、海は一滴分、減ってしまいますから」と答えました。

 具体的で緊急のニーズがあれば、すぐに行動しなければなりません。世界には、心配して世話をしてくれる人が来てくれるのを待つ人が大勢います。どれほどの高齢者が、病者が、収監者が、難民が、自分と同じく心を痛めるわたしたちのまなざしを、わたしたちの訪問を、無関心の壁を乗り越えてくれる兄弟を、姉妹を、必要としていることでしょう。

 どのような「緊急性」が、愛する若者の皆さんを動かすのでしょうか。じっとしていられないほどに、皆さんを動かそうとするものは何でしょうか。パンデミック、戦争、強制移住、貧困、暴力、気候変動といった現実に苦しむ多くの人には、問いが生まれます。どうしてわたしにこんなことが起こるのか。なぜわたしなのか。なぜ今なのか。まさにそこに、わたしたちの存在の中心的な問いがあるのです――「わたしはだれのためにあるのか」(使徒的勧告『キリストは生きている』286参照)。

 ナザレの少女が急いだことは、主から受け取った途方もない贈り物を分かち合わずにはいられない人、経験した深い恵みがあふれ出てしまう人のそれと同じです。自分のことよりも他者の困り事を優先できる人の機敏さです。マリアは、他人からの注目や承認を求めて時間を無駄にする――SNSの「いいね」に取りつかれるとそうなります――のではなく、出会い、分かち合い、愛と奉仕から生まれる、本物のつながりを求めて行動する若者の模範となる人物です。

 お告げを受けて以降、いとこを訪ねて初めて出掛けて行ったときから、マリアは、時と空間を超えて、思いやりあるご自分の助けを必要とする子らのもとへ向かうことをやめません。わたしたちの旅路は、そこに神が住まわれておられるならば、わたしたちをまっすぐ、兄弟姉妹一人ひとりの心へと導く道となります。イエスの母であり、わたしたちの母であるマリアの「訪れ」を受けた人々のあかしは、どれほど多いことでしょう。マリアは、何世紀もの間、地上のあちらこちらで、出現や特別な恵みをもって、ご自分の民のもとをどれほど訪れてきたことでしょう。実際、このかたが訪れていない場所は、この地上にどこにもありません。神の母は人々の間を歩んでおられ、愛に満ちた優しさから心動かされ、苦悩や人生の浮き沈みをその身に引き受けておられます。ですからマリアにささげられた聖地、教会、礼拝堂がある場所には、その子らが大勢集まるのです。マリアにささげる民間信心業はたくさんあります。巡礼地、祝祭日、嘆願の祈り、家々を巡回するマリア像、そのほかにも多数ありますが、これらは、相互に訪ね合う仲の、主の母とその民との血の通った関係の具体例です。

「よい」急ぎはつねに、わたしたちを高みへと、他者のもとへとせきたてるもの

 よい急ぎは、必ずわたしたちを、高みへと、他者のもとへと駆り立てます。その逆の、悪い急ぎというものもあります。たとえば、懸命さや真剣さがなく、かかわっていることに本気で取り組むことなく、表面的にやり過ごすようになる、何でも軽く捉えてしまう性急さです。少しも真剣に考えず、心もそっちのけで、生活し、学び、働き、人と交際しているときのせわしなさです。人間関係の中でそうなることもあります。家庭でいえば、相手の話にろくに耳を傾けず、一緒に過ごすことのない関係、また交友関係でいえば、友だちには楽しませてもらい、自分の欲求を満たしてくれるよう期待する一方、友が窮地に陥り、自分を必要としていると分かればすぐに避けて、別の人のもとに去っていくような関係であればそうなります。さらに恋人どうしの情熱的な関係でも、互いを深く知り、理解するための忍耐力のある人は少ないのです。そうした態度を、学校や職場、それ以外の日常生活でも取ってしまうことがあります。いずれにしても、そうした性急さをもって生きているうちは、実を結ぶことは難しいでしょう。不毛なままとなるおそれがあります。箴言にあるとおりです。「勤勉な人はよく計画して利益を得、あわてて事を行う者――悪い『急ぎ』――は欠損をまねく」(21・5)。

 マリアがやっとのことでザカリアとエリサベトの家にたどり着くと、すばらしい出会いがあります。エリサベトは、老齢の彼女に子を授けてくださった神の、奇跡のわざをその身に味わっていたのです。エリサベトは、まず自分の話をしたくなるのが当然のはずなのに、自分のことには夢中にならずに、駆け寄って若いいとことその胎に宿った子を歓迎したのです。マリアのあいさつを聞いた途端、エリサベトは聖霊に満たされます。こうした、不意に聖霊に満たされる感じは、わたしたちが心から人をもてなすとき、つまり、自分ではなく客人をいちばんに考えるときにもたらされます。これは、ザアカイの物語にも見られます。ルカ福音書19章5−6節では次のように語られています。「イエスはその場所(ザアカイのいるところ)に来ると、上を見上げていわれた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい』。ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた」。

 わたしたちの多くは、思いも寄らないときに、イエスが会いに来てくださるという経験をしています。そのときわたしたちは初めて、イエスにおいて、親しみ、大切に思うまなざし、偏見と糾弾のない姿、いつくしみのまなざし、他の人からは決して得られなかったものを味わうのです。そればかりか、イエスはわたしたちを遠くから眺めるだけでは満足なさらず、わたしたちと一緒にいたい、ご自分のいのちを分かち合いたい、そう望んでおられることも感じ取ったはずです。この体験がもたらす喜びによって、早く主を迎え入れたい、すぐに主とともにあって、主をもっとよく知りたいとの思いに駆られたのです。エリサベトとザカリアは、マリアとイエスを歓待しました。この年配の二人から、歓待の意味を学びましょう。ご両親やおじい様おばあ様に、また共同体のお年寄りに、神を歓待する、他者を歓待するとはどういうことか尋ねてみてください。先人たちの経験を聞くことは、皆さんにとってよい経験となるでしょう。

 親愛なる若者の皆さん。今こそ、具体的な出会いを目指し、すなわち、若いマリアと高齢のエリサベトの間にあったような、自分とは異なる人を本当の意味で迎え入れることを目指して、急いで再出発しなければなりません。そのような出会いだけが、世代間、社会階層間、民族間、あらゆるたぐいの集団や職業間の隔たりを乗り越え、戦争にさえも打ち勝たせてくれるのです。ばらばらに分断された人類に新たな一致をもたらす希望の星は、いつだって若者たちです。ですがそれは、彼らが過去についての記憶をもっていればこそであり、老人たちの語る悲劇や夢に耳を傾けていればこそのことなのです。「前世紀に戦争を体験した世代がいなくなりつつある今、ヨーロッパで戦争が再び起きたことは偶然ではないでしょう」(「第2回祖父母と高齢者のための世界祈願日の教皇メッセージ」)。歴史の教訓を忘れずに、この時代の二極化や過激主義を克服するには、若者と高齢者の連携が必要なのです。

 エフェソの信徒への手紙の中で、聖パウロは次のように告げました。「あなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し……ました」(2・13−14)。イエスは、あらゆる時代において、人類の抱える課題に対しての神からの返答です。そしてこの返答であるかたを、マリアはエリサベトに会いに行くときに、身に宿して運び届けたのです。マリアが高齢の親族に差し出した最高の贈り物、それはイエスを連れて来たことです。もちろん具体的な助けも、とても大切です。ですが、生ける神の幕屋となった聖母の胎におられるイエス以上に、ザカリアの家を大いなる喜びと意義で満たすものはなかったはずです。その山里で、イエスは一言も発することなくその存在だけで、ご自身にとって最初の「山上の説教」を語られます。つまり、神のいつくしみに身をゆだねる、小さな者たちやへりくだる者たちの幸いを、沈黙のうちに告げ知らせておられるのです。

 若者の皆さんへのわたしからのメッセージ、教会が伝えるべきもっとも重要なメッセージ、それはイエスです。そうです。主そのかたを、わたしたち一人ひとりへのその無限の愛を、その救いを、与えてくださった新たないのちを伝えたいのです。そして、マリアが手本となります。マリアは、このはかりしれない贈り物をわたしたちの人生にどのように迎え入れ、そのかたをどのように他の人々に伝えていくかを教えてくださり、次にはわたしたちを、キリストを運び届ける者、キリストのいつくしみに満ちた愛を運び届ける者、苦しむ人類へのイエスの惜しみない奉仕を運び届ける者にしてくださいます。

皆そろって、リスボンへ

 マリアは、皆さんとそう変わらない一人の若者でした。マリアもわたしたちと同じです。イタリア人のトニーノ・ベッロ司教は、マリアについて次のように書いています。「聖マリア。……あなたは絶海へ漕ぎ出す運命にあったことを、わたしたちはよくよく分かっています。ですがわたしたちが、あなたに岸辺を進むよう強いているのなら、それはあなたを、わたしたちのような沿岸航海のレベルに引き戻そうとしてではありません。わたしたちのいる失意の岸辺のすぐそばにあなたがおられるのを見て、わたしたちもまた、あなたのように自由の大海原を冒険するよう召されているのだという自覚に目覚めるからなのです」(Maria, donna dei nostri giorni, Cinisello Balsamo, 2012, 12-13)。

 3年の準備期間の最初の教皇メッセージで思い起こしたように、15世紀から16世紀にかけて、ポルトガルからは、多くの宣教師を含む大勢の若者たちが、イエスと結ばれた自分たちの体験を他の民族や国民と分かち合うために、見知らぬ土地へと旅立ちました(「2020年世界青年の日の教皇メッセージ」参照)。そして20世紀初頭、マリアはこの地に、特別な訪問をなさりたいと望まれました。マリアはファティマから、あらゆる世代に向けて、回心へと、真の自由へと招く、神の愛の力強く壮麗なメッセージを送りました。皆さん一人ひとりを、あらためて心から招待します。来年8月にリスボンで開催されるWYDで頂点を迎える、国を越えた青年の大巡礼に加わってください。それから、11月20日の王であるキリストの祭日に、世界中に散る部分教会で世界青年の日を祝いますので、そのことも覚えておいてください。これについて、教皇庁いのち・信徒・家庭省から先ごろ発表された文書、「部分教会における世界青年の日開催のための司牧指針」は、青年司牧にかかわるすべての人にとって大きな助けとなるはずです。

 親愛なる若者の皆さん。わたしは皆さんが、世界青年の日(WYD)に、神と出会う喜び、兄弟姉妹と出会う喜びを、もう一度体験できるよう願っています。ソーシャルディスタンスや外出制限を必要とした期間を長らく経て、リスボンで――神の恵みにより!――皆でそろって、民族や世代を超えて兄弟として抱き合う喜びを再び得られることでしょう。それは、和解と平和の抱擁、宣教する者の新たな友愛による抱擁です。聖霊がわたしたちの心に、起き上がり[出ていき]たいという情熱と、偽りの国境を捨ててシノドス流でともに歩む喜びの火を、かき立ててくださいますように。起き上がるときは、今です。急いで身を起こしなさい。そしてマリアのように、すべての人にイエスを伝えるため、自分のうちにおられるイエスを運んでください。人生の中のこのすばらしい時期にある皆さんは、聖霊が皆さんの中で進めてくださることを先延ばしにせず、前進し続けてください。皆さんの夢と歩みを、心から祝福いたします。

ローマ、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂にて

2022年8月15日、聖母の被昇天の祭日

フランシスコ

世界青年の日(王であるキリストの祭日)  1984年、あがないの特別聖年に、教皇ヨハネ・パウロ二世は大十字架(380cm)を聖ペトロ大聖堂の祭壇脇に設置し、それを「主イエスの人類への愛のしるし」として青年らに託しました。以来、この十字架は巡礼のシンボルとして諸国を旅しています。国連が定めた国際青年年(1985年)の受難の主日に、青年らはこの十字架とともに教皇のもとに集まりました。そして教皇は、毎年受難の主日を「世界青年の日」として祝うよう定め、以後2~3年に一度WYD(ワールドユースデー)が開かれるようになりました。  2020年に教皇フランシスコは、各方面の要望を踏まえ協議を重ねた結果、次年より世界青年の日を王であるキリストの祭日に変更すると発表しました。祝われる日は変わりますが、この日の中心にあるのはつねに、人類のあがない主イエス・キリストの神秘です。
2023年ワールドユースデーリスボン大会 大会テーマ:「マリアは出かけて、急いで山里に向かった」(ルカによる福音書第1章 39節) -開催日程 : 2023年8月1日から6日まで    2023年に開催が予定されているWYDリスボン大会は、ポルトガルの首都リスボンを開催地とする初めての大会となります。大会テーマとして、教皇フランシスコが選ばれたこの福音は、WYDパナマ大会テーマであった「よい知らせを受け入れる(聖霊がマリアに御子の誕生を予告し、マリアがそれを受け入れる)」エピソードの後に続き、エリザベトを訪ねるマリアの訪問記へと展開していきます。  ナザレのマリアは、神にただ「はい」といって受け入れるよう、わたしたちにキリスト者の通る旅路の模範的なあり方を示しています。マリアはすでにWYD大会の主人公であり、リスボン大会でも同様です。  特に若い人々の巡礼意欲への挑戦として、教皇フランシスコは使徒的勧告で「イエスはどこにわたしたちを派遣するのでしょうか。そこには境界も限界もありません。すべての人のもとにわたしたちを派遣します」(『キリストは生きている』177)と伝えています。 WYD公式サイト(ポルトガル語/英語)www.lisboa2023.org

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